大きな悲しみを抱きしめ前へ バンダアチェ 凛とした美しい町
なぜ、こうもアチェへ惹かれるのだろうか。「日本人ならば、津波博物館へ訪れなければ」と、ずっと胸に引っかかっていた。2004年のスマトラ島沖地震で、国内ではアチェを中心に犠牲者は17万人を超えた。津波で市内まで押し流された舟が今もそのまま残っている。アチェを観光し抱いた印象は、過去の大きな悲しみさえも抱きしめ前へ歩むのだと、凛とした美しさだった。
インドネシアにイスラム教が伝播した玄関口となったアチェは約99%がムスリムで、国内で唯一シャリア(イスラム法)が施行されている。私は、ラマダン(断食月)にその地へ降り立った。テロの発生確率が上がるラマダン月にアチェへ行くことは少し心配だったが、本場でプアサ(断食)を経験したい気持ちが勝った。
バンダアチェ空港では地元のタクシー会社を守るためか、空港内に配車アプリの車が入れなかった。半ば強制的に客引きのお兄ちゃんの車に乗せられたが、料金は配車アプリと同様の値段にしてくれた。
彼は「アチェは犯罪も麻薬もない。人は優しい。恐れないで」と私に言った。ちょっと話を盛っているなとは思ったが、外国人からは「アチェは怖い」と思われるのだろう。
アチェでの目的は3つ。津波博物館と津波を生き抜いたバイトゥラフマン・モスク、最後にミーアチェを食べることだった。震災時、このモスクへ住民が避難し、死を免れたという。そんなモスクは、ただそこで静かに人々を見守ってくれているような荘厳さがあった。
次にお隣の津波博物館へ。日本のダークツーリズムの場合、当時がいかに悲惨であったかを展示しているのに対し、この博物館は、被災から復興、そして現在までの道のりを紡いでいた。
例えば、展示写真では、象に乗って捜索・救助にあたる人の姿が。震災発生から7カ月ぶりに再会し、抱擁しあう親子。学校を再開させようと抗議活動を行う住民。そして、学校へ登校し、満面の笑みを咲かせる子ども——。
さらに、この震災がきっかけとなり30年間にもおよんだアチェの分離独立運動に終止符が打たれ、政府と独立派との間で和平協定が結ばれた際の貴重な写真も展示されていた。同博物館を「残念スポット」と揶揄する人が多いが、どこに残念さがあるのだろうか。
また、この博物館の設計は、建築家としても名をはせるリドワン・カミル西ジャワ州知事が手掛けた。館内では初めに短い真っ暗な「道」を歩き、その両脇には天井から水が流れる。目が見えない中、耳には水音が聞こえる。
水が津波を、暗闇が当時の町や人々の不安や恐怖といった感情を表しているのだろうか。
発生年は異なるものの、互いに支えあったアチェと東北。東日本大震災が発生した3月11日には、アチェで東北へ向け追悼式が行われているという。
では、その逆は? 12月26日にアチェへ向け追悼式は行われているのだろうかとふと思った。(青山桃花、写真も)