大正・昭和の日本を感じて カメラ片手に街中散歩 2泊3日の弾丸訪台
ジャカルタから直航便で5時間半。グルメの宝庫でもある台湾は意外に近く、目的にもよるが、週末旅行でも楽しめる。そこでイドゥル・アドハ(犠牲祭)の「棚ぼた連休」を使って2泊3日の弾丸訪問。お気に入りのコンパクトカメラひとつかばんに突っ込み、台北の街を歩いた。
搭乗機はスカルノハッタ国際空港を昼過ぎに出発する台湾の長栄航空。いきなり脱線するようだが、台北特派員時代からこの長栄グループには思い入れがある。
2016年に亡くなった長栄の張栄発総裁。彼が会うたびに口にする言葉あった。「日本は我が師」。日本統治下の台湾に生まれ、少年期は日本企業で働いた。世界屈指の海運会社を育てた実業家としての第一歩は、日本の中古貨物船を入手するところから始まった。
しかし、日中国交正常化を受けて日本は、中華民国(台湾)と国交を断絶。台湾が外交的に孤立する中、日本への航路再開に苦闘する張氏を最初に迎えたのは神戸港、そして仙台港だった。
2011年3月11日。その仙台港に壊滅的な打撃を与えた東日本大震災。「受けた恩は十倍にして返さなければならない」。張氏の口述自伝によれば、発災当日、総裁室でそうつぶやき、ポケットマネーから義援金10億円を被災地に送った。感謝の言葉もない。
話を戻そう。台湾で介護や水産業の働き手は8割をインドネシア人が支えている。搭乗機もざっと3割がインドネシアの労働者たちだった。
台北到着後は捷運(MRT)で市内へ。空港到着は午後9時と悩ましいが、深夜も営業する馴染みの店に飛び込み、牡蠣オムレツをかき込む。小粒だが味は濃厚。台湾グルメ、万々歳だ。
翌朝はハイテク産業の集積地となる科学園区がある新竹へ。熊本進出で話題となったTSMCの本拠地でもある。新竹こそ今回の目的地だが、台北に戻る時間が気になっていた。その日は日曜。インドネシア人労働者が台北駅に集まってくる日だったのだ。
「円安の日本より、働くなら台湾。月収は1500万ルピア近く、私の職場では礼拝もヒジャブも自由。日本はダメでしょ?」。ランプン州出身のアニサさん(24)は、駅構内のホールで仲間と帰り支度をしていた。コロナ禍で問題化した長時間労働などの障害は当局間交渉で解決され、台湾の労働環境は素晴らしいと笑顔を見せた。ただ、日本で働くことには興味がないというから寂しい。
台北駅を後にして、ふらっと立ち寄ったのは台湾大学(旧台湾帝国大学)近くの日本家屋が密集するエリア。歴史を公平にとらえた保存活動が進んでおり、しっとりとたたずむ「大正・昭和の日本」にほっとする。趣味の話で恐縮だが、つかの間の〝写真散歩〟を楽しんだ。(長谷川周人、写真も)