邦人の足跡を訪ねて 独立戦争の発火点 スラバヤ
国内第2の人口都市となる東ジャワ州の州都、スラバヤ。コロナ禍の影響もあり、訪れる機会がなかったが、ようやく実現した。初訪問の感想を一言で言えば、街の規模感といい、落ち着いた空気感といい「できるものなら住んでみたい」。わずか2時間ほどだったが、独立戦争の発火点でもあるスラバヤで邦人の足跡を追って歩いて見た。
スラバヤ滞在をするなら、一度は泊まってみたい「インドネシアのラッフルズホテル」と言われる「ホテル・マジャパヒト」。コロニアル様式のホテルを東南アジア各地に建てたサーキーズ兄弟が1910年、「ホテル・オラニエ」として創設。四半世紀を経た改装工事が終わり、36年のリニューアルオープン時にはチャーリー・チャップリンが駆けつけたホテルとしても知られる。日本軍政下では「大和ホテル」と改称された。
トロピカルガーデンを囲む白亜の回廊に刻まれた歴史。それはオランダが宗主国としてこの国を支配した軌跡だが、同時にこの国が独立を勝ち取る分水嶺でもあった。
日本の敗戦を受け、英蘭連合軍がスラバヤに進駐。ホテル屋上にオランダ国旗を掲げた。これが独立気運に沸く青年たちを刺激。そして45年9月19日、青年たちは赤、白、青のオランダ国旗の青色部分を破り取り、紅白の「メラプティ」にすげ替えた。引き裂くのではなく、燃やすのでもない。ジャワ人らしいウィットに富んだこの対応、鳥肌が立つほど感動的だ。
そんな歴史の現場を写真に収めていると、軍服姿の男が現れた。最初はギョッとしたが、なんでも障害者支援をするボランティアグループによる映画作りなのだそう。監督のシルヴィ•ムティアラさんは「スラバヤから始まる独立への道は私たち市民の誇り」と胸を張った。
レンタルバイクで街中を巡ってみた。最初に訪れたのは「ジュンバタン・メラ(赤い橋)」。英蘭連合軍と再占領を阻止する民兵たちが衝突した激戦の地だ。旧日本軍の技術担当だった石井正文前駐インドネシア日本大使の父親も、この近辺に住んでいたという。
橋を越えると中華街。目抜き通りの名は「Jl.Kembang Jepun」で、「日本花街」と訳されている。文字通り、日本の花街があったエリアで中華文化とコラボさせた門構えに違和感を覚えたが、シルヴィさんは「スラバヤの歴史の流れに沿って街並みは変化する。当然のこと」と私の邪推を一笑に付した。
スラバヤに日本総領事館が創設されたのは1920年のこと。1900年には三井物産が拠点を立ち上げた。日本総領事の竹山健一氏は「スラバヤと日本の関係は昔から深い」という。「日本人が見た100年前のインドネシア」。じゃかるた新聞が2017年に出版した本書を手に邦人の足跡を訪ね、じっくりと歩いてみたくなった。(長谷川周人、写真も)