スカルノ氏が消えた8月16日 レンガスデンクロック事件 カラワン
1945年8月16日。スカルノ初代大統領はこの日、ジャカルタにある前田精海軍少将の公邸で、独立宣言文を起草した。この歴史的を決断したのは、日系企業の集積地でもある西ジャワ州カラワン県。排日に傾く独立急進派がスカルノ氏らをこの地に連れ出し、自主独立を迫った「レンガスデンクロック事件」だった。日イ両国が国交樹立65周年を迎えた今年、歴史の現場をのぞいてみよう。
広大な水田地帯が広がるカラワンで工業地帯としての開発が始まるのはスハルト政権時代。1980年代後半のことだ。そしてジャカルタ近郊に位置するカラワンは首都防衛の根幹を担う軍事拠点でもあった。
日本の敗戦が濃厚となる中、再植民地化に動き出したオランダ。これを阻止しようと「郷土防衛義勇軍(PETA)」が日本軍政下で組織された。
日本軍が育てたPETAだが、認識は必ずしも一枚岩ではない。自主独立を主張するPETAの青年活動家らは8月15日夜、スカルノ、ハッタ氏(初代副大統領)両氏に武力蜂起と即時独立宣言を迫った。
しかし、独立には国際世論を味方につける必要があると考えたスカルノ氏はこれを拒否。青年活動家らは翌16日未明、PETAの勢力基盤があるカラワンに2人を連れ去った。
場所はレンガスデンクロックの一角にある華人、ジアウ・キエ・シオン氏が住む平屋建ての民家。現在の「Museum Pengasingan Soekarno(スカルノ亡命博物館)」だった。
ジアウ氏の孫にあたる家主のヤント・ジョワリ氏(70)の話を聞こう。
「あの日、スカルノ氏には長男のグントゥル・スカルノプトラ氏、長女メガワティ氏(元大統領)が同行。(第1夫人の)ファトマワティ氏の姿もあったが、ハッタ氏は単身だったと祖父に聞いた」
ヤント氏によれば、スカルノ氏らは16人のPETAに付き添われ、軍用トラックでレンガスデンクロックに到着。若い独立急進派は再び独立宣言を迫った。
ところが、この時点でスカルノ氏は日本の敗戦を確認できない。悶々する時間が過ぎる中、一報が飛び込んできた。独立後に初代外相となるスバルジョ氏が、戦争終結を知らせる前田氏のメッセージを伝えた。機は熟した。スカルノ氏は同日午後5時半、PETAとともにジャカルタの前田邸に入り、独立宣言文の起草作業が始まった。
ヤント氏によれば、レンガスデンクロックには15日、メラプティ(インドネシア国旗)がはためいた。「なぜか。翌日にインドネシアの独立宣言が世界中に知られると知っていたから。作業手続きで1日遅れになったけれど」。
取材を通じ、戦争終結から独立宣言までの3日間、さまざまな立場の思いが交錯しながらも、両国があうんの呼吸で連携した様子が透けて見えてきた。
さて、歴史探訪の疲れを癒やそうと、博物館から車で30分ほどの日本式ホテルのデロニクスに投宿した。居心地のよさをぎゅっと詰め込んだ客室はまるで日本のマンションのよう。大浴場も邦人利用客に人気だそうだ。そして和式の中庭を眺め、刺身をつまみながら考えた。
スカルノ氏が78年前、このカラワンの変貌ぶりを想像しただろうか。しかも独立の最終判断を下したカラワンから、前田少将の公邸における宣言文の起草につながり、時を経て今、ここは日イの経済交流を象徴する地となった。なんとも感慨深い。(センディ・ラマ、写真も)