新聞配達も高齢化の時代 失速する日本を感じる朝
日本は新緑が真っ盛りの季節に。花々が春を彩り、行動制限のないゴールデンウイークを3年ぶりに楽しむ人々の姿があった。健康診断が目的の短い滞在だったが、良いタイミングで一時帰国できたと思う一方、右を見ても左を見ても密、密、密。社会的距離の保持は形がい化しており、心配にもなった。そして朽ち果てた公園のブランコをぼんやり見ながら、この国の行く末を憂う自分がいた。
一時帰国中のある日の早朝、自転車が倒れる音が聞こえて目が覚めた。しばらく耳を澄ましていたが、午前6時前でもあり、近隣は寝静まったままだ。原因が分からず様子を見に出ると、初老の女性が倒れていた。動悸がして息苦しくなり、倒れてしまったという。
循環器系に問題があれば、命取りにもなりかねない。救急車を呼ぼうかと思ったが、女性はそれを拒み、「ちょっと休んだから大丈夫。時間がないので行きます」とまた自転車をこぎ出した。100メートルほど走っただろうか。再び自転車を止めた。「ほらみたことか」と思ったが違った。女性は新聞配達員だった。自分の自転車で新聞を配っていたのだ。
その光景は自分にとっていささかショッキングだった。前カゴに新聞をうずたかく積み上げ、青年が走ってポストに配達していく。それが昭和の朝の風景であり、決して高齢者の仕事ではなかった。
もちろん、時代は大きく変わった。新聞の発行部数は減り、少子高齢化が進んでいる。高齢者世帯の収入は下降線をたどり、「バラ色の年金生活」といった時代は過去の話に。しかも足元ではコロナ禍が経済発展の足かせとなり、物価高騰や円安などの不安要素も加わり、「世界第3位の経済大国」は根底から揺れている。
それでも健康寿命は世界一と言われ、政府は「人生100年時代」を掲げる。額面通り受け取るかはともかく、実際に働く高齢者は増えており、健康を維持して働く老後を迎えることは喜ばしい。ただ、痛む胸に手を添えながら、そろりそろりと新聞を配るその女性の後ろ姿は痛々しい。
気を取り直し、せっかく早起きをしたので朝の散歩をすることにした。朝露に濡れるツツジに生命力を感じ、新緑が目に染みる散歩道を歩けば心も軽くなる。庭先を仕切った小さな花畑に咲くチューリップが美しく、立ち止まって園庭の主と話してみれば、繊維大手の元幹部で1980年代にボゴール駐在を経験したという。
思いもかけず、昔話に花が咲いたが、通りがかった公園のベンチでまた憂うつな気分になった。ブランコが吊り具が取り外されたまま、朽ち果てている。清掃担当者によれば、少子高齢化の中で近隣は〝過疎化〟。子育て世代が減ってしまい、「安全のため使用停止になった」という。
若さあふれるインドネシアと失速が懸念される日本社会——。経済力でも将来的な逆転現象が予想されるというが、ソフトパワーの衰退は国力を削ぐ。図らずもそれを現実の物として予感する朝になった。(長谷川周人、写真も)