スハルト一家を日本の味で魅了 シェフ・上原茂さん バンドン
植民地時代には「ジャワのパリ」とも称された高原の街、バンドン。西ジャワ州の州都で中心部は海抜700メートルを超え、涼しく過ごしやすい。小洒落た街並みが続き、いつの時代も人々を魅了してきた。そのバンドンで訪れた先は1933年創立のバンドン日本人学校。スハルト大統領一家を日本の味で魅了した日本人シェフ、上原茂さん(71)に1970年代当時の話を聞く機会も得た。
インドネシアにおける日本人学校といえば、思い浮かぶのは69年に開校したジャカルタ日本人学校ではないか。だが、さらに歴史を遡ること36年。日本が国連を脱退した1933年、バンドン日本人学校が当時の「日本会館」に設立された。
「41年 戦争激化のため閉校」。学校沿革史は開戦年をこう記録しており、激動の時代を乗り越えた同校の歴史を物語る。民家を借り上げた現在の校舎も曲線を多用したデザインが美しい。もっとも教育施設としては老朽化が激しく、コロナ後に向けて「抜本的な改修工事が必要」(山田啓史校長)だろう。
日本人学校の取材を終え、上原さんが経営する日本料理店「時次郎」に向かった。アールデコ風の建物が並ぶ街を走り抜け、中心部のグドゥン・サテ(西ジャワ州庁舎)にほど近い住宅街の一角にその店はあった。
上原さんの滞在歴はジャカルタ20年、バンドン26年。優しい目が印象的な鉄板焼きのプロだった。東京・六本木にあった加工食品大手キッコーマンの直営店で腕を振るっていたが、日系企業の進出ラッシュが始まった76年、「鉄板焼きレストランしま」から誘いがかかった。
当時のジャカルタで日本料理店といえば、69年に「菊川」が中央ジャカルタ・チキニで立ち上がり、「よしこ」や「鉄板焼きレストランしま」などが続いた。上原さんは当時を振り返り、「最大の悩みは食材だった」という。
筆者も記憶しているが、70年代のインドネシアで牛肉といえば国産の水牛が主流。肉質は固く、とても日本の鉄板焼きには適さず、「ようやく米国産プライムビーフの入手ルートを確保した」。食材を工夫しながら日本の味を守り、「この国の人にいい料理を出したい」。そんな職人魂にエンジンがかかった。
上原さんはある賭けに出た。「大統領(故スハルト氏)に私の鉄板焼きを味わってほしい」。大胆にもイスタナ(大統領宮殿)と直接交渉し、大統領一家に食事を出す機会を得た。
「メンテンのご自宅へも」。すっかり大統領の胃袋をつかんだ上原さんは、一家のお気に入りシェフに。上機嫌な大統領はチップを弾み、100万ルピアを手渡したこともある。今の通貨価値なら10万円ほどになるが、上原さんの挑戦はそこで終わらなかった。
現在のテーマは「インドネシア産ウナギをどう楽しむか」。料理を口に運ぶと反応をじっと観察する上原さん。「あ、美味しい!」の表情を見逃さないプロの目が光った。 (長谷川周人、写真も)