時空を超えて息づく友情 日本の農業支援計画 西ジャワ州チアンジュール県
日イ両国を結ぶ技術協力は、大量高速鉄道(MRT)など枚挙にいとまがないが、農業分野で育まれた友情の歴史は古い。かつてインドネシアが進めた「西部ジャワ食糧増産計画」。これに推進力をつけようと日本が1968年、支援プロジェクトを立ち上げた。舞台は西ジャワ州チアンジュール県。ここにジャポニカ米で培った技術を根付かせようという壮大な計画だった。あれから半世紀余。日本の足跡は残っているのか? その残像を探そうと、チアンジュールに向けてハンドルを握った。
プンチャック峠を越え、グデ山麓に広がるチアンジュールに入った。ジャカルタ特別州からみると、南東方向に100キロほどの距離になる。高原地帯に延々と続く水田風景。緑が美しく、車を停めて写真を撮り始めたが、ふと思った。なぜわざわざ斜面に水田? 大変じゃない?
「コニチハ」。そこへ背後から片言の日本語でフィラマンさん(58)が声をかけてくれた。素人質問をぶつけてみると、「日本人がグデ山の良質な水を引いた。チアンジュール米の歴史は、その灌漑事業で大きく変わった」という。
支援プロジェクトの事業母体となったのは、国際協力事業団(JICA)の前身となる海外技術協力事業団(OTCA)。JICAの資料によると、当時、日本から農業技術者らが当地に派遣され、近代稲作栽培や優良種子生産に関わる指導を行ったとある。
父親が日本人技術者の指導を受けたフィラマンさんによると、「ボゴールに住む日本人が多かったが、繁忙期はみんな一緒に暮らし、一緒に汗を流した」という。
「日本のおにぎりに父親が感動していました。ジャポニカ米ですよね。見た目は似ているけど、インドネシアの米とはまったく違う。そう言っていました」
フィラマンさんの話を補足してくれたのは、中心街のホテルでフロントに立つシファ・ファウジアさん(19)。まだ少年だった父親が当時、調査団が提供した日本のおにぎりの美味しさに驚き、海の向こうの日本に憧れを抱いたというエピソードを紹介してくれた。
もっとも、ジャポニカ米を源流とする当時のチアンジュール米が、今も人気の売れ筋かと言えば、必ずしもそうでもない。立ち寄った精米店の従業員によれば、「日本が指導した米は刈り取りまで5カ月かかる。価格的には1キロ1万3千ルピアと高額だが、標準的なチアンジュールの良質米は3カ月で出荷できる。値段も1万ルピアだから農家にも消費者にも喜ばれている」のだという。
とはいえ、村人に残る当時の日本人技術者への感謝の気持ちに触れることができたのは、今回の大きな成果だろう。持ち帰ったチアンジュール米は味噌汁と一緒に食べてみたが味も香りも格別。労苦がにじむ〝日本の味〟を感じた。(長谷川周人 写真も)