扁桃体ハイジャックの選挙政治
大統領選挙の投票日まで約1カ月となり、選挙キャンペーンもアクセル全開で最終コーナーに突入した。このラストスパートで威力を発揮するのがSNSだ。5年前の選挙でもSNSは重要なツールとなったが、今回の比ではない。この5年でSNSと選挙の関係は大きく変わった。それは深刻な懸念にもつながっている。
きっかけは2016年の英国の欧州連合(EU)離脱の国民投票や米国のトランプ大統領の誕生に大きく貢献したケンブリッジ・アナリティカという選挙コンサルだ。これにインドネシアの政治エリートたちも飛びついた。専門家集団を組織して手法を習得するトレーニングを積んできた。
彼らはビックデータを操り、ターゲット層ごとに響く選挙ネタをSNSで拡散し、クリックやシェアの足跡を収集してネットワークのマッピングと拡散効果を分析する。
効果が確認できるとエンジンにアルゴリズムをプログラミングして、同類のネタをターゲットに流し続ける。こういうサイバー部隊が大量に動員され、投票の1カ月前にフル稼働しているというのが今回の選挙の大きな特徴である。
「その筋」の人から話を聞いたところ、いま一番効果的で拡散力の強いネタは二つだという。ひとつは「現政権が継続になればフリーセックスとLGBT(性的少数者)が合法になる」というもの。もうひとつが「現政権が続けばウラマーが多く逮捕され、アザーンも禁止になる」というものらしい。
どちらもデマである。しかし、このデマは大量に反復的に伝達されるなかで、真実との境目がぼやけてくる。そうさせるのが感情の力であり、気持ち悪いという嫌悪、許せないという怒り、いつか自分がマイノリティーになるという不安と恐怖。こういう情動反応に直接訴えかけるデマや陰謀論が選挙戦略としていま大量に動員されている。
これは脳科学や神経心理学の世界で、扁桃(へんとう)体ハイジャックと呼ばれるが、情動に深く作用するメッセージを刷り込むことで投票行動を誘導させようとする選挙キャンペーンである。
こうなると、もはや選挙は人柄やイデオロギーやビジョンや政策といった「見えるもの」から合理的に判断して投票行動を決めるという、これまでの常識が通用しなくなる。嫌いだ不安だ恐ろしいといった感情が、政治選好や投票行動を決定づける時代に入りつつあるのかもしれない。そのことは社会の分断をあおり、寛容な社会を蝕(むしば)み、民主政治の空間を圧迫することにつながっていく。
選挙テクノロジーの進歩と発展は、皮肉にもそういう世の中を作ろうとしている。日本も他人事ではない日が来るかもしれない。(立命館大学国際関係学部教授)