【じゃらんじゃらん特集】 タンゲラン旧市街を訪ねて【上】 国内初の華人文化博物館 ベンテン・ヘリテージ
「チナ・ベンテン(要塞の中国人)」。バンテン州タンゲランに住む華人の俗称だ。オランダ植民地の拠点だったバタビア(ジャカルタ)から川をいくつも越え、要塞を構える僻地に暮らす華人は、何世紀にもわたり、スンダ人やブタウィ人など地元の人々と共生し、独自の文化を育んできた。インドネシア初の華人文化博物館「ベンテン・ヘリテージ」と、旧市街に点在する中国寺院の2回にわたり、タンゲランの華人文化を特集する。
西ジャワ州ボゴールのサラック山からジャカルタ西部を蛇行し、タンゲラン市街地に流れ込むチサダネ川。全長80キロほどだが、ジャワ海に注ぐ河口では川幅200メートル近くになる。
川の東側に広がるのが「パサール・ラマ」と呼ばれる旧市街地。タンゲラン最古の中国寺院「ブン・テック・ビオ」を中心に、現在も周辺の路地では昼過ぎまで魚介類や青果物を売る露店が並ぶ。
この密集地の一角に、華人文化を紹介する博物館ベンテン・ヘリテージがある。木製の看板や扉、窓枠を生かした中国風の長屋で、赤い提灯が軒下に吊り下げられている。博物館と気付かずに通り過ぎてしまいそうな建物だ。
中に入ると、漆黒の木枠で縁取られた部屋に、白黒の色あせた写真や絵が飾られている。踊りに使う昇り竜が横たわり、提灯の柔らかい明かりが室内を照らす。中国の時代劇の中に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出す。
奥の部屋は隣の家との壁が取り払われ、広々とした居間に調度品が並ぶ。屋根まで見上げられる吹き抜けが中央にあり、これを取り囲む木枠の最上部に陶製の破片が散りばめられている。三国志の軍神・関羽の武勇伝を描写したものという。
狭い階段を上がっていくと、観音像や衣服、盆栽、電話、タイプライターなどが所狭しと置かれている。幼児期から足を縛る中国古来の風習の纏足(てんそく)用の靴も展示。色鮮やかな刺繍が施された10センチほどの靴は大人用で、20世紀初頭までタンゲランの華人女性も使用していたという。
来場者の多くはタンゲランや首都圏の華人たち。地元の人々から寄贈された展示品も多く、学校の木製机や携帯端末のような小型黒板を見て「昔使っていた。懐かしい」との声も聞かれた。
土着民族のブタウィ人やスンダ人と華人の混こう文化を示す衣服「クバヤ・ウンチム」、ブタウィの伝統音楽「ガンバン・クロモン」に使われる楽器などもある。首都圏の華人が生活の中で使ってきた物品が雑多に陳列されている。
この博物館を造ったのは、この建物の斜め前に住んでいたという華人男性ウダヤ・ハリムさん(60)。学校を経営する教育者でもあり、「タンゲランの華人の文化を継承していきたい」と、商店だった長屋の一部を買い取った。
2009年から大規模な修復に着手。インドネシア大学の研究者などに協力を求め、裏にある寺院とほぼ同時期の17世紀に建てられた建造物であることなどを突き止め、可能な限り建設当時の形状に復元することを目指した。
縁起を担いで11年11月11日に開館。今も周辺には露店が並び、生活と切り離された博物館というより、地元の人々がノスタルジーに浸れる秘宝館のような雰囲気が漂っている。
■苦い歴史 次世代に継承
「これは日本軍がタンゲランに侵攻した際、没収された物品の被害報告書です」。近所の華人住民から提供されたという書類が2階の壁に貼られている。武器の原料にする金属だけでなく、窓や瓦、扇子なども強奪されたという。博物館の運営マネジャー、サティアディ・ヘンドラさん(34)は「日本の兵隊は民家の扉をどんどんたたいて回ったので、当時のことは『ザマン・グドラン(どんどんの時代)』と呼ばれています」と説明した。
この隣には、独立直後の46年にタンゲランで発生した華人虐殺事件を報じる当時の新聞記事を掲示。「600人の華人虐殺」「1万人がジャカルタへ避難」の見出しが躍る。親オランダ派の華人がメラプティ(国旗)を降ろしたとのデマが広がり、民兵が華人街を襲撃したという。「98年の5月暴動の記憶もまだ新しい。苦い歴史を繰り返さないように、過去の出来事を伝えていくことが大切です」(配島克彦、写真も)(つづきは15日に掲載します)
◇ベンテン・ヘリテージ
住所:Jl.Cilame No.18/20, Pasar Lama Tangerang Banten
Tel:021.445.44529
休:月曜。火〜金曜は午後1時〜同6時。土、日曜は午前11時〜午後7時
入館料:外国人は5万ルピア。英語ガイドあり
ウェブサイト:www.bentengheritage.com