【人と世界/manusia dan dunia】 多様な価値観を共有 インドネシア大理事 バクティアル・アラム氏(54)
「多文化の中で多様性を感じ、育ったことが今の私を形成している」
1958年南スラウェシ州マカッサルで、ブギス人の父と日本人の母親との間に生まれた。父は元南方特別留学生。終戦を日本で迎え、母と出会い結婚し、インドネシアへ。61年、父の仕事で日本へ移り住む。64年、学習院初等科へ入学。日本人の学校に外国人は1人。異文化環境の中での生活から大きな刺激を受けた。
また、同時期に初めて馬に乗った経験から生物と触れ合う楽しさに目覚めた。
69年にインドネシアへ帰国。日本との習慣や環境の違いに衝撃を受けたという。
77年インドネシア大(UI)医学部へ入学。翌年、文化問題への情熱から文学部日本研究学科(当時)へ籍を移す。
在学中、インドネシア研究の権威であるクリフォード・ギアツ氏の著書「文化の解釈」と出会い、人類学に興味を持った。ギアツ教授とは文通などを通して交流を深め、ハーバード大へ進学する際は推薦状を書いてもらった。
■沖縄との出会い
卒論のテーマを決定する際、インドネシアとの接点がある日本の社会や地域を模索。インドネシアと日本を知っている自分が両国の接点を見出すことができる地域ということで「沖縄」と出会った。また、日本から赴任してきた琉球大の比屋根照夫教授やウィリアム・リーブラの著書「沖縄の宗教と社会構造」などからも影響を受け、沖縄へ何度も足を運んで調査を実施した。「文学部で初めて社会科学と出会った」
UIの修士課程を終えて89年に渡米し、ハーバード大学で東アジア研究修士、社会人類学博士号を取得。95年に米国での生活を終え、インドネシアへ帰国。「米国の大学などからオファーがあったが、インドネシアという国、大学に貢献したかった。インドネシアの学生たちを指導したかった。自分の国に戻って挑戦したいという気持ちが強かった」
■母校で日イ架け橋
新たな人生のチャレンジが始まった。UIに再び戻り、98年日本研究センター所長に就任。97年から開始された国際協力機構(JICA)との日本研究者育成プログラムでは日イの橋渡役として尽力。UIと東京大学などとの関係構築に力を注いだ。
2005年に会長職を退いた後、インドネシア日本研究学会(ASJI)に就任。インドネシアの日本研究者を対象にした論文コンテストを開催するなど後進の育成にも力を注ぐ。現在は、UI理事として大学全体の研究・社会貢献の実績向上に努めているほか、経済連携協定(EPA)に基づく看護師・介護福祉士受け入れ事業について九州大と共同研究を行っている。
妻のスリ・アユ・ウランサリさんも沖縄の女性問題を研究しながらUIで講師を務める。夫婦そろって沖縄をテーマに研究活動に精を出している。
■同じ目線の関係
日イ関係について「これからは共通の価値観を共有した上で、同じ目線に立った関係を構築する必要がある」と指摘する。
現在のインドネシアは民主主義国家としての成長を遂げた。日本と、人権の尊重や多様性の重視などを共有できる。スハルト政権の崩壊から十数年が経ち、民主主義が根付いてきている。「着実に成長していることを日本側も認識する必要がある」と強調する。
日本から外国へ留学する若者が減少する中で、グローバルな変化に対応する柔軟性を持った人材が今後ますます必要になっていく。
「インドネシアと同様、日本も国として転換期を迎えている。外国文化に対し寛容な姿勢で接することが大切になっていく。今後両国がさらに協力を深め、21世紀の世界に貢献していく可能性は大きい」(小塩航大)