【人と世界/manusia dan dunia】 防災教育、広めたい 東日本大震災を体験 フェラ・ユリアンティ・マリックさん(39)
2011年3月11日、午後2時46分。宮城県仙台市青葉区のアパートの部屋が横にグラグラと揺れた。室内の本棚、電気製品が倒れてくる。初めて体験する大地震でパニックになった。すぐに部屋の外に逃げ出したが、階段の手すりにぶつかり、背骨を骨折した。
友人に背負われ、震災後の街を徘徊。やっと見つけた避難所では立ち上がることもできず、3日間寝たきりに。インドネシア大使館が派遣したバスに乗り、東京に向かった。約2カ月間、東京の病院で入院生活。周りのインドネシア人が次々と帰国する中、震災体験と向き合った。
「日本とインドネシアは大きな地震を体験した国。両国を知る私にできることは何か」。東北大学で日本語教育の修士課程を履修していたフェラ・ユリアンティ・マリックさん(39)さんは「防災の大切さを伝えていきたい」との思いに至った。
◇日本との出会い
バンドン工科大学を卒業して、公園などを設計する会社に就職。だが、やりがいを見出せなかった。そんなとき、新聞広告で知った日本への農業研修に参加。00年に初めて日本の地を踏んだ。研修先は鹿児島県。農家にホームステイした。
「近所の人がいつも声をかけてくれたり、地域の行事に誘ってくれたり。日本人の日々の生活にどっぷり浸かることができました」
もっと日本を知りたい。帰国後、日本語教師になろうと、02年にリア外国語大学に入学。06年には国際交流基金の日本語講座の非常勤講師になった。さらに言語教育を学ぶ必要性を感じ、文部科学省の国費留学生として、08年再び来日した。
◇震災直後の仙台
フェラさんが通ったのは東北大学の川内キャンパス。震災当時、建物の倒壊など被害の大きかった仙台市青葉区にある。来日して3年目に入ったとき、あの日を迎えた。
震災発生後も約8カ月間、日本に留まった。インドネシア人留学生4人で共同生活。自炊し、生活必需品を共有するなどして乗り切った。「本当は帰りたかった。家族がとても心配していて、すぐにでも会いたかった」。しかし、退院後、卒業論文とリハビリのために震災の爪痕が残る仙台に戻った。
そこで見たのは、復興へとひた向きに頑張る日本人の姿。仙台の街は復興の兆しを見せていたが、人々は精神的ショックを抱えているように見えた。
地元の小学校から「留学生と座談会を開きたい」という依頼を受け、フェラさんは話し手として参加。小学生らとお互いの被災場所の様子などについて話し合い、心境を伝え合った。「子どもたちに震災のことを聞くのはためらった。家族を亡くして子もいるでしょうから。でも、みんなとっても前向きでした」
11年11月、修士課程を卒業し、インドネシアに帰国。空港に母が出迎えに来ていた。1年半ぶりの再会。うれしくて涙が止まらなかった。車いすで戻ってきた娘を母は優しく抱きしめた。
◇学生に語り継ぐ
現在、アル・アズハル大学の日本研究センター所長・専任講師を務める。フェラさんは日本語を教える傍ら、日本語学科の授業で防災の大切さを説いている。6月には国際交流基金ジャカルタ日本文化センターの小川忠所長を講師に招いて、防災教育についての講義を行った。
日本での震災を思い出すとき、04年にアチェで発生したスマトラ沖地震・津波を連想する。「アチェでは海の方向へ向かったり、テレビや家財道具を持って逃げる人がいて多くの犠牲者を生んだ。一方、日本は小さいころから防災教育を受けているため、これだけの災害でも犠牲者は少なかった。インドネシアでも防災教育の大切さを訴えていきたい」