【人と世界/manusia dan dunia】ガラス工芸 出合いに導びかれ バリ島在住の鳥毛清喜さん
「新しい挑戦を続けるんだ」と目を輝かせたり、「早く仕事を辞めたい」とおどけてみたり。世界でも例を見ない「ガラスの家」をバリ島で製作中の鳥毛清喜さん。とにかく若々しい71歳の有名ガラス工芸作家だ。インドネシアのほかアジア各国のホテルなどが作品を採用。9月にはバンコクで個展を開催する。ガラス工芸の道を歩むようになった人生は、日本のほか世界を舞台につむがれてきた。
京都府舞鶴市で生まれた。高校卒業後に松下電器(現・パナソニック)へ入社し、照明事業部のデザイン室に配属。電球やナトリウム灯の製品パッケージの製作に明け暮れた。
24歳で独立を決意。大阪上本町2丁目のビルに事務所を構え、スーパーの折り込みチラシや松下電器からの注文をこなし続けた。1日2食の苦しい生活。デザイナーを12人も雇うまでになったが「面白くなくなり」事務所を閉じ、欧州・中近東の旅行に出かけた。「飽きっぽいところもあった」と本人も認める。
この旅行が人生を変える。
「先人のデザインを生かし、現代によみがえらせたい」と思い続けてきた鳥毛さん。以前、本で読んで惚れ込んだ紀元前の戦勝記念碑の型どりを行おうとイランを目指す。現地で偶然出合ったのが、欧州の発掘チームが掘り出したガラスのモザイクだ。経由地のイタリアで感銘を受けた芸術にイランで再会する不思議さもあり、モザイクの世界にとりつかれていった。
イタリアへ戻って巨匠の下で修行。ステンドグラスとモザイクの技法を4年間、朝から晩までどっぷり学ぶ。「古い教会での修繕作業は勉強になった」。培った経験や美術哲学はその後の人生に大きな影響を与えた。現在まで続くガラスと生きる人生は、ここからスタートした。
日本に帰国して、ステンドグラスの工房を大阪心斎橋に開いた。33歳。イタリアからガラス切りとダイヤモンド研磨機を運んだ。建築事務所やデザイン事務所から仕事が次々に舞い込み、人生で初めて「順調」とも言える時期だった。
だが、事務所をたたんでしまう。「日本では、ステンドグラスは目隠し目的などとして使われていた」。自然光を生かし、色の深みの出し方や筆の筆圧を表現することこそ、ステンドグラス本来の美しさのはずだった。
そしてたどりついたのが、ガラスそのものの溶解だった。ステンドグラス製作のために欧州から輸入したガラス板の中に、たまにあまりにきれいで切りたくないものがあった。東京・鎗ヶ崎交差点の角に工房を作り、40歳からガラスを溶かし始めた。渋谷区代官山「ヒルサイドテラス」にも工房を構え、全国的に鳥毛の名は知れ渡っていった。経営が厳しいこともときにあった。
その後、鳥毛さんの人生はバリと交差する。
本当に芸術家として大事なことは何か。悩んだ末に結論が出た。「何もなく、人もいない浜辺に作品を置いてみたい」。そして、東京での暮らしに終止符を打った。
目を向けた先は、ガラス史と呼べるものがなかった東南アジア。「自分が歴史をつくるんだ」。時を同じくして、1994年にソ連が崩壊し、対共産圏輸出統制委員会が解散。インドネシアにもガラス製作に必要な物資などが入るようになり、バリ島への移住を決めた。年齢は52歳になっていた。
現在は吹きガラスを使った作品や空間の装飾を主に手掛ける。口コミで製作依頼が増えていった。看板を出したこともない。宿泊施設となる予定のガラスの家を全部で4棟造っている真っ最中で、年内にも1棟を仕上げる予定。それぞれの棟で技法を変え、「光の錬金術師になりたい」。
バリ島を舞台に、創作意欲は増すばかりだ。今後は「同じものを製作しないとリスクはあるが、新しいことにどんどん挑戦していきたい」。
(岡坂泰寛、写真も)