【ジャカルタ日本祭り特集】 スーパーなチームワーク 熱意の輪をさらに広げる 小林一則・新実行委員長

 2009年の初開催から過去3回のジャカルタ日本祭り(JJM)の実行委員会委員長を務めてきた黒田憲一さんが体調不良のため勇退し、小林一則さん(69)が新実行委員長に就任した。「黒田さんはとても良いリーダーで、私たちはゆっくりサポートしていけばいいと思っていた。委員長就任は突然のことだったが、重要な任務をやるように言われて、ありがたいことだなと思っている」と小林さん。「見えるところでも見えないところでも頑張っている皆さんの『スーパーなチームワーク』で祭りの基礎ができつつある。その輪を広げていき、黒田さんが言っていたように日本とインドネシアの友人関係を揺るぎないものにしていきたい」と意気込みを語った。(関口潤、写真も)

 2009年3月、ジャカルタ日本祭り実行委員会発足時に発起人に名を連ねた。「日本とインドネシアの関係は経済の面でも気持ちの面でも素晴らしく、『お手伝いできることがあったら小さいことでも大きいことでも何でもやりたい』と思っていたら、以心伝心だったのかな」と振り返る。
 ゼロから始まった催しのファンドレイジングを担当。「良いことというのは何でも難しい。なら難しくともやってみようじゃないか」と引き受けた。
 「『え、ジャカルタ日本祭りって何?』から始まった」という資金集めだが、旧知の人々などに呼び掛けて結成したファンドレイジングチームでは「若い人たちが熱意とエネルギーを発揮した」と評する。実行委員会はそのほかの分野も、チームごとに運営されており、「それぞれが信じられないようなスーパーなチームワークを持っている」と評する。
 「『良いことをやっているんだ』『進んで参加したい』という気持ちが積み重なって、それぞれのチームの素晴らしい仕事につながっている」

■28年、発展とともに

 今年でインドネシア在住歴が28年になった。「見たことも聞いたこともないインドネシアに来たとき、まさか28年もいると思わなかった」と小林さん。大手商社の駐在員として1982年3月、39歳の時に初めてインドネシアに降り立った。
 折しもインドネシアでは、それまでの石油輸出頼みだった経済構造からの脱却を図り、自前で産業を構築しようという流れから「繊維産業大投資ブーム」が起こっていた。日本の商社や繊維メーカーもこぞって進出。「ものすごい迫力のある時代だった」という。
 90年代初頭には日本の商社が中心となって工業団地が造築され始め、インドネシアの産業は繊維から自動車・電気産業へと裾野が拡大。現在に続く経済成長の基礎となった。小林さんは95年に地場系大手財閥のシナールマスグループに移り、現在も日本企業とインドネシア側を結びつける仕事を続ける。
 「インドネシアはものすごく発展し、機会が多くある若い国。そんなところで面白い仕事をさせてもらってきたなと感じている」

■友だちを心から理解

 昨年の東日本大震災後、インドネシア全国に広がった支援活動などに対し、「優しい心がほとばしって出てくるような国と国との関係はめったにない。非常に良い友だちに巡り会うことができたなと思っている」と小林さん。インドネシアの経済成長とともに、両国の関係性は変化していくが、「どんなときでも、友だちが考えていることを心から理解することが大切」と語る。
 友好関係の深化を目的に毎年開催されるジャカルタ日本祭り。「何とも言えない親しみは過去の大先輩が積み重ねた努力のたまもの。その中で私が実行委員長を担当させてもらうことになった。次の世代へポジティブなものを残していきたいと思っている」と力を込めた。

◇小林一則氏
 1942年12月1日生まれ、69歳。65年神戸大学経済学部卒。同年に丸紅に入社。米テキサス勤務、国際業務部などを経て82年から86年、89年から95年にインドネシアに駐在する。95年に地場系大手財閥のシナールマスグループに転職。現在、同グループ専務取締役。息子が2人、孫が4人いる。大学の体育会で活動していたテニスなどスポーツや読書が趣味。

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