歌で学ぶインドネシア ラグラグ会
歌声が聞こえてくる。中央ジャカルタ・インティランドビル。毎週水曜日午後7時の練習。筋金入りのベテランから来たばかりの若者まで入り交じる。歌うのはインドネシアの曲。会員が使うテキストには全国津々浦々の歌があふれている。
1974年1月15日の反日暴動「マラリ事件」。国内の政治情勢に絡み日本への「経済進出」に非難が湧き上がった。インドネシアの文化を知ろうと国広道彦公使(当時)、日本人学校教諭らがラグラグ会を結成した。
「インターネットもなくインドネシアの情報を得る手段が少なかった」と在住歴40年を超える生き字引きの梅村正毅さん。歴代大使の多くが参加した会、練習後の反省会で駐在員らは情報交換した。「今のように娯楽が多様化していなかった。歌い、反省会で懇談するのが唯一の娯楽だった」と会の運営を支える鍋谷政宏さんは話した。
ラグラグ会は46年の歴史のなかで苦難にぶつかってもきた。96年に日本人学校が郊外に移転し、教諭の参加が難しくなる。97〜98年のアジア通貨危機で駐在員が一気に減る。数人での練習になる時期もあった。そこで当初は男性のみの参加だった同会は2001年に女性にも門を開く。いまでは会員の3分の1が女性だ。64年からイに在住するルスタム禮子さんも09年に入会した。「08年に病気をして声が出なくなり、声を出せるようにと入会した」。近年の在留邦人の増加も背中に受けた。
インドネシア語曲を歌う上で大切なのは発音だ。中村征夫さんがeとuの発音の違いや無声音ng、tまできめ細かい発音の指導をしてきた。「お母さん(bunda)の情緒的な歌が荷物(benda)になってしまうと指導された」とベテランの佐久間武美さん。ほかにも「心にしまう(simpan)という歌詞も交差点(simpang)になる」など徹底的だ。
そんな中村さんも最初はインドネシアを知ろうと入会した。だが「すぐに伴奏をお願いされた。それからいままで伴奏、指揮をしている」と述懐している。
11年には創設者の1人の石居日出雄さんとの別れがあった。オランダ植民地時代の1931年、バタビア(ジャカルタ)生まれの石居さんは歴史の生き証人。インドネシアを代表する作曲家イスマイル・マルズキと知古だ。石居さんは多くの会員の前で「グバハンク」(私の愛の詩)を独唱した。
長い道のりは多くの財産を培った。80年に会員が作詞作曲した「ラグラグ会の歌」が生まれた。東日本大震災の後のパーティで出会った、ダルマプルサダ大学のコーラス部との交流もあった。東京、大阪、スラバヤ、マカッサルに支部もあり、年末パーティは合流の場になっている。(吉田拓史、写真も)
◇ラグラグ会 毎週水曜午後7時〜同8時半、中央ジャカルタのインティランドビル19階で練習。男女のメンバーを募集。問い合わせは鍋谷さん(携帯0811・840・034)まで。