【デジタル羅針盤】 知識と経験と
知人のインドネシア人日本語教師が冗談混じりにぼやいていたのだが、今の生徒は知識があり過ぎてやりにくいのだそうだ。
日本に関することは一般的なニュースに限らず、流行りものや文化芸能情報まで何でもすぐにインターネットで知ることができる。
違法ではあるが、日本の民法テレビ局の放送をほぼリアルタイムで視聴することだって可能だ。ソーシャルメディアを使って、直接日本人と知り合うこともできる。
生半可な知識と下調べで授業中に日本についての雑談をしようものなら、かえって痛い目を見るし、学生からの質問も高度(というよりマニアックだろうか)なものになりがちだという。
中高生では多くはせいぜいアニメをダウンロードして見たり、ファッションや芸能のニュースを読んだり程度だが、中には好奇心旺盛で徳川家康の一生からカッパの生態まで詳細に知っている生徒もいるのは事実だ。
前述の日本語教師は「あなたはネイティブだからその辺に不安はないでしょう」とおっしゃったが、それでもウィキペディアほどの知識があるわけもなく、状況は大差ない。
インターネットの登場による最大のインパクトは、単なる知識、情報の価値はほぼなくなったことだ。「剣道とは‥である」「安倍首相が‥した」という知識、情報には誰も付加価値を感じない。
ならば、「家康の日本史における意義」のように情報を意味付ければいいのか。単なる知識よりマシだが、意義・解釈もインターネットにいくらでもある。素人の知識では、専門家の書いた説明に太刀打ち出来ない。
となると、価値のある情報というのは体験や感情が伴ったものしか残らない。「剣道とは‥」でも、実際に剣道をやった人の話ならば、文字に起こすと同じようなことを言っていても、奥行きが違って聞こえる。
インターネットの登場で知識は供給過剰で価値が暴落する反面、経験は人間の時間が有限である以上、供給量は変わらず、価値も下がらないということだろう。
どんな情報でも手に入る時代だから、いろいろなところに行って、いろいろやってみた方が良さそうだ。(IkuZo!日本語・マンガ学校校長、元じゃかるた新聞記者 福田健太郎)