「諸君よ、左様なら。」 バリ島 先人・三浦襄さんの墓で想う

 インドネシアと言えば親日国家、親日国家と言えばインドネシアと言えるほど数ある諸外国の中でも私たち日本人にとって旅行も生活もしやすいインドネシア。街中でキョロキョロしていればどこからともなく声を掛けてくれる人が集まり、不慣れな場所でも日本人だと言うと蝶よ花よともてなしてくれる事も。インドネシアの人たちの本来の気立ての良さや礼儀正しさがあることは言うまでもありませんが、それを考慮しても彼らが日本人に好意的な理由を「インドネシアを独立に導いたから」という定型文であしらうのはいささか大雑把。今回のおすすめ観光情報は、現代の私たちがインドネシアで平和に旅行や生活ができる基盤、インドネシアの人々と信頼関係を築き愛され続けた先人のひとり、バリ島に眠る三浦襄さんと現地の人に守られ続けているお墓について紹介します。

 三浦襄さんは1888年仙台で日本基督一致教会の牧師一家に産声を上げました。秋田と東京で教育を受けながらも中退し、商売の道に進むべき南洋商会に入会、中部ジャワのスマランに渡航したのが1908年、半年ほど在籍していたのだそうです。その後、バリ島、ロンボク島、スマトラ島などインドネシア各地を4年ほど流浪し現在のスラウェシ島ウジュンパンダンで仲間5人と共に小売業を開業。実業家として1912年には日印貿易商会を開業し本店をウジュンパンダンに構え、通商貿易、栽培漁業、製油、採鉱、造船の事業を行いました。しかし、1925年に同士のひとりが強盗に殺害されたことにより日印貿易商会は解散、三浦襄さんは同じく同士の岸将秀氏とともにコーヒー農園を始めたそうです。スラウェシ島のウジュンパンダンといえば、世界的に有名なトラジャコーヒーの生産地。独特のフルーティーな酸味とコクのあるトラジャコーヒーはインドネシア各地で栽培されているコーヒーの中でも愛好家も多いコーヒーです。1750年頃にはオランダ東インド会社がインドネシアでコーヒーの栽培を開始したと言われていますが、約100年前のスラウェシ島といえばおそらくまだまだ大変過酷な環境。1930年、三浦襄さんはコーヒー栽培をあきらめてバリ島に移住し自転車店を開業、日本人の自転車屋のお父さんとして親しまれたのだそうです。
 その後、太平洋戦争が開戦し帰国するも1942年に陸軍第48師団今村隊の随員として日本軍の通訳などの宣撫工作に従事すべくバリ島の地を再訪しました。アジア開放とインドネシアの独立という日本軍の太平洋戦争の意義を説くと同時に、バリ畜産会や三浦商会を立ち上げ軍部と現地社会との仲介役となって活躍したのだそうです。1944年、病気のため一時帰国をするも日本は戦争に勝ちインドネシアを独立させるというバリ島の人たちとの約束を守るために再びバリ島に戻りインドネシア独立に向けて動いていたのだそうです。しかし、その後間もなく敗戦を知った三浦襄さん。戦時中、戦争に負けたら武士道の精神に則り腹を切ると日本人は言っていたのに誰もそうしていない、ならば自分が責任を取る、このままではバリ島の人々に顔向けができないと、連合軍が迫る中、1945年9月7日午前6時、自らの命を絶ったのだそうです。
 バリ島、デンパサールのグヌン・バトゥカル通りにはインドネシア独立とバリ島の人々との約束を信じ生涯を終えた三浦襄さんのお墓がバリの人たちによって建てられ現在も守られています。「諸君よ、左様なら。」と締めくくられた石碑に刻まれた遺書の抜粋に胸を打たれます。バリ島は言わずと知れた世界有数のリゾート地。インドネシア在住中には何度も訪れる癒しの場所です。そんな南国の楽園に今も現地に身も魂も捧げ、両国の友好を見守り続ける三浦襄さん。今後、その日本とインドネシアの友好精神を受け継ぐこと、語り続けることが私たちにできることであるとすれば、皆様もお参りに行かれてみてはいかがでしょうか。(水柿その子 写真も)

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