中所得国の罠
先週、インドネシア金融庁(OJK)の年次総会で、ジョコウィ大統領のスピーチを聞く機会があった。いつもながら、低音の効いた落ち着いた声、気の利いた冗談、なるほどと思わせるストーリー展開で、非常に質の高いスピーチであると感心した。大統領が特に強調していたのが、経済運営において「中所得国の罠」(Middle—income trap)に陥ることなく成長を持続させることができるかがカギという点だ。以前より色々な場面で強調されていたことではあるし、近年のインフラ整備や鉱物資源の輸出制限と川下産業の育成政策などはこの問題意識がベースになっていたであろうことを考えると、特に目新しさがあったわけではない。ただ、金融関係者が集まる場で、あえて危機感を隠さずかなり強いトーンで話していたことが印象に残った。
中所得国の罠とは、途上国が一定程度の経済発展をしていき、中位レベルの所得水準に到達するとそこから先は長期間に渡って成長が鈍化する傾向。例えば、発展に伴い賃金上昇などの理由で、後から追いかけてきた後進国に輸出競争力で劣後するようになる一方、内需の方は十分に育っておらず、結果として成長のけん引役を失うといったような経路で生じる。一般的にはブラジルやアルゼンチン、アジア諸国だとタイやマレーシアがこの罠に陥っていると言われているが、韓国や台湾などはこの罠を乗り越えて高所得国の仲間入りをした事例として認識されており、一定の条件下ではこれを回避できると理解されている。
世界銀行は年次で各国の所得水準を4段階(高所得、上位中所得、下位中所得、低所得)に分類して発表している。インドネシアは長らく下位中所得国に分類されていたところ2019年に上位中所得国にランクアップを果たしたが、コロナ禍での経済低迷もあり20年にはまた下位中所得国に下がってしまった(先のジョコウィ大統領のスピーチでもこのことを引用して強調していた)。
中所得国の罠は、近年、中国を含むアジア諸国をはじめ、多くの途上国や中進国で意識され、学術研究も進んできている。そして、この罠を抜け出すには経済発展パターンの転換が必要であるというのがほぼ一致した見方となっている。基本的には資本や労働力といった生産要素の投入量を増加させる量的拡大型の発展から、各生産要素の質的改善を通じた生産性向上型による発展への転換だ。従って、処方せんとしては、市場原理が働くような各種制度の整備、産業構造の高度化、人的資源の育成、イノベーションの促進といったような項目が並ぶことになる。もちろんこれらは言うは易しで、それぞれをどうやって成し遂げるかこそが大事になってくるのだが。
開発経済学者の大野健一氏は、日本の江戸後期以降の経済発展において、外来のシステムや概念をオリジナルなまま受け入れるのではなく、ニーズや目的に合わせて適宜修正するという「翻訳的適応」が果たした役割の大きさを指摘していた。インドネシア流に翻訳し適応するプロセスを、それぞれの分野において見出すことができれば、それはこの国の発展に資する本質的に高い付加価値を生み出すのではないかと思う。(三菱UFJ銀行ジャカルタ支店長 中島和重)