「生きた化石」を後世へ 紙の歴史覆す伝統技術 「樹皮紙」研究の坂本 6月に展示会 ジャカルタで
中部スラウェシを中心に現在まで伝わるインドネシアの伝統文化「樹皮紙」「樹皮布」の技術を広く知ってもらおうと、文書修復家の坂本勇さん(六四)らによる「樹皮紙」「樹皮布」の展示会が、来月十四、十五の両日、南ジャカルタ・ダルマワンサ・ホテルの「ビマセナ・クラブ」で開催される。樹皮紙、樹皮布は三千年以上前から存在するとみられ、中国発祥とされてきた紙の歴史に大幅な修正を迫る可能性がある伝統文化だが、現在では技術の継承が進まず、風前の灯火。坂本さんは明治維新時の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で日本の歴史的遺物が破壊された際、欧米人が保存していたものが現在にも残っていることを引き合いに出し、しがらみのない外部の人間が他国の文化の保存にかかわることの意義を強調。展示会の開催などを通じ、「古代インドネシアで花開いた技術」(坂本さん)の認知度を高めたいと意気込んでいる。
◇スラウェシでの出会い―「暗黒」史観に修正迫る
坂本さんがインドネシアとかかわり始めたのは、古文書の調査でアチェを訪れた一九九八年。その後、骨董品市場のある中央ジャカルタのスラバヤ通りでカジノキが使われた書物を発見し、その技術の源流を突き詰める研究が始まった。二〇〇五年に行ったスマトラ沖地震・津波で被災した土地台帳の復興作業を経て、インドネシア科学院(LIPI)やインドネシア大学との共同研究で、伝統的な紙の製造技術が残っている中部スラウェシ州ロレ・リンドゥ国立公園のバダ渓谷を訪れた。
バダ渓谷で坂本さんが出会った高齢の女性職人たちが手にしていた道具は、三千年以上前の遺跡から出土している石器にそっくりだった。紙自体は腐ってしまうため現存しておらず、古代遺跡から出土した石器の用途が紙の製造だったと証明するのは難しいため、石器は紙製造以外の用途のためのものだったとする学説が根強かった。だが、坂本さんが出会った職人の技術が、石器が紙の製造のためのものだったことを証拠付けた。
従来の学説では、紙の製造技術は、八世紀に中国から中東へ伝わり、その後欧州へと広がっていたというのが一般的。紙の伝播ルートではインドネシアを含む赤道地域については触れられず、欧州諸国が植民地支配を始めるまでは紙の「暗黒地帯」だったとされてきた。インドネシア国内でも、紙はオランダ人がもたらしたとの理解が一般的だ。
だが坂本さんと古代の道具を現在も使う「生きた化石」とも言える人々との出会いが、紙の歴史の通説に修正を突き付けている。
◇日本と親近感ある技術―継承者急減に歯止めを
インドネシア各地に樹皮から紙を作る技術はあったが、工業製品の普及を背景に現在ではほとんどが廃れてしまった。これまでに分かっている中で唯一、高度な技術を継承している中部スラウェシのバダ渓谷でも、この十数年で職人が急減し、八十歳近い女性数人のみが技術を継承しているだけだ。
樹皮紙はバティック(ろうけつ染め)などに比べてはるかに古い伝統文化で、外国では紙研究に波紋を広げているが、インドネシア国内では認知度はまったくと言っていいほどないのが現状。保存運動も活発ではない。
樹皮紙の原料は日本の和紙と同じで「日本人にとって親近感がある」と坂本さん。「自分たちのルーツを誇れるようになれば、インドネシアの人々の幸せにつながるアイデンティティの確立に貢献できるかもしれない」と述べ、認知度と保存運動の拡大を目指す取り組みを続けていく決意を示した。
展示会はインドネシア文化の振興を支援するヌラニ・ブダヤ財団が主催。十四日は招待客のみで、十五日に一般公開される。開館時間は午前十時から午後六時まで。入場無料。四百年前に作られた樹皮紙の展示品に、直接触れることができる機会の提供も検討している。