8月15日に思う 「見捨てられた戦線」 パプア州サルミ
きょう、8月15日は「敗戦記念日」。今年で戦争終結から75周年を迎えた。そして私たちが暮らすインドネシアは、旧日本軍が展開した蘭印作戦の最終目標。「見捨てられた戦線」と言われるパプア州・西パプア州では、5万3千人の将兵が散華したという。「観光」とはほど遠いが、節目となるこの日、3年前に行ったパプア州への慰霊の旅を敢えて紹介したい。
太平洋戦争における蘭印作戦の目標のひとつにオランダ領東インド(現在のインドネシア)の資源確保があった。しかし、東の果てにあるニューギニアでは、食糧や飲料水、そして医薬品が欠乏。弾薬も底をつき、ここに連合軍が容赦ない艦砲射撃や空爆を繰り返す。名誉の戦死をした兵士もいるが、多くは飢えと疲労と病に倒れ、地獄絵図のような惨状があったという。
記者の叔父もこの地で生き地獄を見た1人だった。手元にあるのは戦死を伝える「死亡告知書」だけ。これを頼りに叔父が最後に過ごした地を特定、線香を手向けてこようと決めた。
準備作業は出征した三重県での情報収集から始め、パプア州中部のサルミを最初の渡航目標に決めた。州都のジャヤプラから300キロあまり。叔父はここで飛行場建設に関わったと聞いた記憶があったからだ。
悩ましいのは移動手段だった。遺骨収集事業の関係者は、パプア問題の先鋭化による治安悪化もあり、武装兵士の帯同を強く勧める。だが、かかる経費はとても個人で捻出できる金額ではない。そこでインドネシアの友人に計画を持ち込み、地元の海難救助隊員に協力を求めた。
「武装する? 部隊の自動小銃は持ち出せる。だが、不用意に相手を刺激するのは危険だ。大丈夫。安全は私が守る。丸腰で行こう」
後にいれば郷に従え、だ。ただし、移動用の車選びは彼も慎重を期した。長距離であり、崩落した橋も多い。大排気量の四輪駆動車を確保した。警察で移動許可証を申請し、燃料200リットルを積み込み、いよいよ出発だ。
ジャヤプラを出発するとまずセンタニ湖の美しさに見惚れた。そして道中は蝶の写真を撮ったり、地元料理を楽しんだり、実は拍子抜けするほど平和だった。
夜半にサルミに着き、翌朝から「戦没日本人之碑」へ。遺骨収集団が政府予算で建立した碑だ。続けて向かったのは「山形の碑」。第36師団は東北出身者が多く、山形県の遺族らが建立したとの説明を聞いた。
サルミ飛行場は町外れにあった。定期便はなく、普段は村人の〝運動場〟に。滑走路脇の海岸で見た夕陽が見事だったが、水平線の先は故国、日本。同じ風景を見たはずの日本兵たちの気持ちを考えれば、胸を締め付けられる思いをした。
さて、ここまでは死亡告知書と記憶に頼ってたどり着けた。問題はこの先。マラリアで戦病死した叔父がたどった道を探し当てる必要があるが、情報は皆無だった。
状況を理解してくれた案内役の海難救助隊員が、猛然と聞き込みを始めた。病死ならば病院に搬送されたはずという仮説を立て、サルミ東郊のマフィンにいた可能性が濃厚という。実は日本で調べた所属部隊の移動経路にも、この地名を確認していた。祈る思いでマフィンに向かい「長老」に話を聞いた。曰く「マフィンに病院はふたつある。ひとつは負傷兵、ひとつは病兵を収容した。マラリアなら、我が家の裏にあった病院だよ」
再開発区のため、病院跡地は焼け野原。けれど、あきらめずに地面を掘ってみると、薬瓶やメスといった医療器具がざくざくと出てくる。ここに間違いない。そう確信した。日本での下準備はわずか2週間。勉強不足は承知の上だったが、多くの人の協力を得て、ささやかな慰霊祭を実現できた。感無量だった。
その一方、考えさせられたこともある。厚労省によれば、両州にはなお未収容の遺体が推定で1万9千570柱あるという。個人の力は限られているが、慰霊の旅はこれからも続け、雨ざらしとなった遺骨の帰還実現に尽力したい。(長谷川周人、写真も)