ご隠居顔の機関車 歴史物語る生き証人 ジャティバラン製糖工場
空と地上の境界線をジグザグに切り取るジャカルタの摩天楼。いつの間にこんな大都会になったのだろう…。長年この街に在住している人は感慨深く見つめる一方、新規着任者は想像以上の都会で驚いた、配車アプリなどかえって日本での生活より便利だと目をぱちくりさせます。今回のおすすめ観光情報は巨大都市ジャカルタから数時間、今なお悠久の歴史が残るジャワの世界史紀行、ジャティバラン製糖工場跡を紹介します。
インドネシアの歴史と独立後の経済発展を語るうえで欠かせない大規模農業(プランテーション)。油やし、天然ゴム、コーヒーなどと並ぶ主要農産物のひとつにサトウキビがあります。ジャティバラン製糖工場は中部ジャワ、ベルべスに作られた3つのサトウキビ製糖工場のひとつで、1842年に建設されました。
ここで歴史絵巻をちょっとだけ紐解き世界史の教科書の中へ。当時のヨーロッパといえばまさに激動の時代。フランス革命、ナポレオン戦争などで激しい領土争いが繰り広げられる中、1799年、オランダ政府は世界最初の株式会社として1602年の設立以来、東インド(現在のインドネシアの大部分)の植民地経営をしていたオランダ東インド会社を解散させました。すでに栄光の全盛期を過ぎていたオランダ。これによりインドネシア(当時のオランダ領東インド)の宗主国となってからも1830年のフランス7月革命によるベルギーの分離などで強力な武力を失い、さらにオランダ領東インド各地で頻発する反植民地闘争でも戦力や経済力が衰退、ますます窮地に追いやられていました。
そこで当時の総督ファン・デン・ボスが導入したのが植民地における強制栽培制度。ジャティバラン製糖工場はまさにこの強制栽培制度のために建設された製糖工場なのです。何としても経済を立て直し、国力回復を果たさなければならないオランダは、この強制栽培制度によって独占的に収穫物を買い上げて欧州他国へ転売したことで目的通り大儲けをした一方、現地ジャワの農民は一層の重労働と貧困に窮したのだそうです。
時は流れてインドネシア独立後、ジャティバラン製糖工場はインドネシア政府の管理下に置かれて営業を継続。ベルベスの他の2か所の製糖工場が次々に閉鎖される中、2017年に現役製糖工場としての幕を下ろすまで175年間に渡り稼働し続けました。
現在、現役を終えたジャティバラン製糖工場は当時の従業員数名が残り教育施設として営業、一般公開されています。セピア色の廃屋、巨大な圧搾ミルに加熱濃縮用の効用缶。どこを切り取っても音楽ビデオでも撮影できそうなほど格好いい工場内は、なんとなくまだサトウキビの甘い香りが漂っている気さえします。風に揺れる草むらに残る1916年完成の美しい扇形機関庫には、無数のサトウキビを運びジャワの歴史を支えた古い機関車たちが安堵の笑みを浮かべながらご隠居顔でお休み中です。作り物ではない本物だけが持つ重厚な風格と哀愁。ジャティバラン製糖工場は錆びついた鉄の香りとともにこの壮大なジャワの歴史を静かに物語る生き証人なのです。決して忘れ去られることがないよう、私たちにできることは実際に現地を訪れて体感し、歴史の重みをかみしめ伝えていくことです。ご縁があってやってきたインドネシアで教科書から飛び出した唯一無二の学習体験。皆様も足を伸ばして見つめてみてください。
(日本旅行インドネシア 水柿その子 写真も)