【村を翔たオバマの母(3)】自主性を支援したい 「村のともしび」に
アントン・スジャルウォ(68)は1960年代からヤヤサン・ディアン・デサ(ジョクジャカルタ市)の代表を務めてきた。「ヤヤサン」は財団のことだが、技術者らが村民とともにパイプや雨水タンクなどを敷設する草の根実行団体で、ディアン・デサは「村のともしび」という意味。地域社会に即した「適正技術」を基に、廃水処理、バイオマスのエネルギー利用など活動は多岐に及んだ。マグサイサイ賞受賞など国際的にも評価された。
夫と別れ、長女マイヤを育てながらシングルマザーとして研究生活をしていたアン・ダナムと出会ったのは70年代末、中部ジャワ州スマランで行われていた地域開発プロジェクトの現場だった。
「アンとはよく現場で、インドネシア語と英語を交えて議論したよ」。アントンは深々と語り始めた。
■数値でない「幸福」
スマランでのプロジェクトは、米国際開発庁(USAID)の資金援助によるもので、同庁スタッフとして農民や零細事業者への小口低利融資(マイクロファイナンス制度)を担当していたのがアンだった。
「情熱家で、特に農村での女性の役割になると話が止まらなかった」。アントンによると当時はまだ、ジェンダー(性的差異)の視点は一般的ではなかったが、アンはすでに女性が重要な役割を占め、それが政策では見落とされていることを見抜いていた。
アントンは適正技術の技術者として、アンは小口融資の専門家として、それぞれたどり着いた答えが「住民の自主性を支援」。考えが同じと知った2人は、いつしか「スモール・イズ・ビューティフル」が合言葉になった。70年代にベストセラーになった本の題名だが、各々の信念をその言葉に込めた。アントンは「数値や金額には表せないものにも価値があるとアンに教えられた」と話す。
アンは81〜84年に米フォード財団ジャカルタ事務所で働く。財団は、ディアン・デサを支援した最初の外国団体だった。アントンはジャカルタ事務所を訪れる機会が多く、アンと再会した。事務所では、母に会いにハワイから来ていたオバマ青年を見かけた。母の働きぶりを見ている姿が印象に残った。(ライター・前山つよし、敬称略、つづく)