【村を翔たオバマの母(2)】 「宇宙人」同士の親友 女性の地位向上目指し
「なぜ依頼した原稿を提出できないの!」
1981年当時、有数の社会科学ジャーナル「プリズマ」の編集委員を務めていたジュリア・スルヤクスマは、一回り年上のアン・ダナムを怒鳴りつけた。息子のバラク・オバマをハワイに住む両親に預け、長女マイヤを育てながらインドネシアでフィールドワークを続けていたアンは、農村における女性の役割に関する寄稿を頼まれていたが、締め切りに間に合わなかったのだ。
インドネシア人女性作家で、有力英字紙ジャカルタ・ポストで専属コラムニストを務め、京都大学東南アジア研究所に客員研究生として招かれたこともあるジュリアは現在62歳。アンとの最初の出会いは原稿落ちをめぐる口論だったが、歯に衣着せぬ率直な側面を互いに知った2人は「腹を割って話せる相手」として、生涯の友になった。
■実践するフェミニスト
「職業も性格も違い、年齢も離れていたが、社会正義では共鳴した」とジュリアは振り返る。
当時、アンはジャカルタにあるフォード財団東南アジア支部に勤め始めたばかりで、女性の雇用促進プログラムの責任者を任されていた。「実践するフェミニストだった」とジュリアは評する。それは欧米の学者にありがちな、西洋の基準にはめ込むものではなく、インドネシアの地域社会と文化に即した「女性の地位向上」だった。
ジュリアの父は外交官。保守的な家風だが、幼い時から男の子顔負けで走り回り、批判主義的なところがすでに芽生えていた娘に両親は手をこまねいていたという。映画監督と結婚し、モデルを務める傍ら、持ち前の英語の文才で社会派女性作家として主張を続けてきた。それは自分なりのジハード(ムスリムとしての努力)だった。そんなジュリアをアンは「別の星から来た宇宙人」と冗談めかして言った。
逆にジュリアは、米国で異人種結婚に風当りが強かった60年代にケニア人と結婚し、後にはインドネシアの農村調査にいそしんでいたアンに「あなたこそ風変りな宇宙人」と笑って返した。
■控え目なオバマ青年
ジュリアは、南ジャカルタ区クバヨランバルにあったアンの住まいで、夏休みに訪れていた20歳過ぎのオバマと話したことがある。母親の脇に物静かに座っていた姿が印象的だった。
当時のオバマは、米ロサンゼルスの有名カレッジで学んでいたが、自分が進むべき道を見つけられずもんもんとしていた。アンは成績優秀な息子を自慢する一方、「お前はもう少し、野望を持った方がいいわよ」と冗談ぽく背中を押した。その言葉が今となっては印象深い。
ジュリアは「アンが52歳で早世せず、生きていたら」と時々思いめぐらせる。「きっと、息子である大統領の政策批判をいとわない、社会派の面倒な母親だったでしょうね」(ライター・前山つよし、敬称略、つづく)