歴史の香り漂う ジャワのパリ AA会議のムルデカ会館
かつて「ジャワのパリ」と呼ばれ、今なおオランダ統治時代に建てられた白壁の歴史的建築物が多く残るバンドン。現在はムルデカ会館をはじめ、ホテルや州庁舎、大学のオフィスなどに利用され、高原の街バンドンを彩る。
▼オランダ人の社交場
アジア・アフリカ会議の舞台となったムルデカ会館は1895年、オランダ植民地時代にコーヒー店として建設された。1928年には劇場や社交場もでき、オランダの軍将校らエリート層が集まる社交場として親しまれた。日本軍政下では「大東亜会館」として情報発信の場となった。
同会館は2005年のバンドン会議50周年の際に、一度化粧直しされたが、館内は当時の姿のまま保存され、博物館が隣接している。
60周年会議を目前に控え、周辺一帯では現在、突貫工事が進んでいる。歩道を整えたり、花を植えベンチを備え付けたりと大忙し。アジア・アフリカ通りは工事の影響で大渋滞していた。会館前のベンチで友人らと写真を撮っていたバンドン工科大学(ITB)の学生アリワティさん(20)は「準備中で会館の中や博物館には入れなくて残念。歴史的な建物の保存はもちろん、バンドン会議をきっかけに町もおしゃれできれいになればいい」と話した。
▼州庁舎や事務所に
ディポヌゴロ通りにある西ジャワ州庁舎「グドゥン・サテ」。オランダ人建築家J・バーガーを中心に1920年から4年かけて建てられた。屋根の上にある六つの果物ローズアップルを串刺しにしたように伸びるシンボルが「サテ(串焼き)」に似ていることから「グドゥン・サテ(サテの建物)」と呼ばれる。
噴水や花などが植えられた緑豊かな庭園の中央には、独立戦争時の45年12月3日に英国が送り込んだグルカ兵の攻撃にあい、命を落とした7人の悲劇を忘れないよう、記念碑が建てられている。
午後4時以降は誰でも入館でき、中を見学することができる。
▼建築家シュマケル
バンドンにはインドネシアで活躍したオランダ人建築家ウォルフ・シュマケル(1882〜1949)が手がけたものが多く残る。ムルデカ会館に手を加えただけでなく、ブラガ通りにある聖ペテロ大聖堂などバンドンの町に多くの建築物を残した。
インドネシア教育大学(UPI)のキャンパス内にあるヴィラ・イソラ。半年間の工期で33年に完成した。一度日本軍の手に渡ったが、独立後に5階を増築し、名前も「ブミ・シリワンギ」に変更。現在ではUPIの学長室・事務所として使われ、会議室なども設けられている。
シュマケルは29年に、ムルデカ通りにあるホテル「プリマ・グランド・プレアンガー」も建設した。増築されているものの、当時の建物が「アジア・アフリカ館」として残っており、宿泊できる。バンドンと同館の歴史を振り返る博物館も併設。チャールズ・チャップリンが何度も宿泊したことでも有名だ。
マーケティング担当のマルコさんは「アジア・アフリカ会議が開かれる間は、代表者やメディア関係者らが宿泊するため予約でいっぱい。とても忙しいが、60周年という節目を迎えられ、歴史の重みを感じる」と話した。
▼日本軍も使用
アジア・アフリカ通りにある「サボイ・ホマン・ホテル」。アジア・アフリカ会議が開かれた55年以来、各国首脳が同ホテルからムルデカ会館まで歩く姿が、歴史に残ってきた。
ドイツ人のホフマン氏一家が所有していた建物で、1880年ごろから改築を繰り返し、88年頃には現在のホテルの原型となる建物となった。
1937年にはオランダ人のヴァンエス氏の下で、一度改築されたが、42年には日本軍が占領。45年には国際赤十字のオフィスとして使用された。独立後の46年にヴァンエス氏の手元に返され、亡くなる52年まで経営。その後インドネシア人経営者が買い取った。館内は吹き抜けの中庭を囲むように部屋が並び、オランダの雰囲気が残る。宿泊した各国首脳のサインが残されたゲストブックが展示され、その歴史を物語っている。(毛利春香、写真も)