【ジョコウィ物語】(16)移転の壁を越えた 露店商の利を増やす

 ソロ市内の半数の露店商が集中するバンジャルサリ。移転には多くの障害があった。
 バンジャルサリの露天商は想定された千人よりも多く、03年から05年まで倍増し2526人。市内の露店商の総数も同期間に6割増えた。近隣6県から仕事を得られない人々が露天商に流れる構図だった。
 市場新設は2014年現在も進行中の事業であり、予算は限られていた。施工にもむらがあった。06年5月完成のモジョソンゴ市場では塗装が間に合わず、「準備不足」と非難を浴びた。
 長く路上で商売した人々は環境の変化を不安がった。露店商の半数が集まる「本丸」、バンジャルサリの抵抗はとても強かった。

■バンジャルサリの成功
 ジョコウィは移転の条件を良くしようと努めた。プレマンの末端を、移転先の警備員や駐車場係員として再雇用した。露天商千人に1日400ルピア支給。開店資金を数百万ルピア渡し、移転後の自立の道筋をつくろうともした。
 市場の入居費も低く抑えたため、市場を新設、改築した費用を回収できていないとの批判がある。しかし市場管理局の担当者は「運営費や設備の維持費をまかなえればいいという考え。移転と市場改築には多方面に利益がある」と説明する。「予算をいくつもの市場建設計画に使うのではなく、集中投下した」。
 移転先で自立できれば、現金を配るよりも効果的な低所得者対策になり、渋滞対策や都市計画も円滑に進められる。無法地帯から公的な場所に商人を移すこともできた。
 別の力学も働いたようだ。「彼は闘争民主党(PDIP)の党員」。移転交渉の当事者、ノトハルジョ・リサイクル商協同組合代表のエディは右腕のジョコ・スギハルトの肩をたたいた。エディ自身は民族覚醒党(PKB)の党員。「われわれはなんとかうまく運ぼうとした」。両党はジャワ島で強く05年6月の市長選も、14年大統領選もジョコウィを推薦した。

■シャトルバスで客運び
 2006年末、バンジャルサリが落城し、露天商のノトハルジョ市場への移動が始まった。だが、新しい問題が噴き出した。「南に移り閑古鳥が鳴いた」とエディは述懐した。失敗すれば、他の移転も座礁しかねない。ジョコウィは地元テレビ、新聞に広告を打ち、「陸の孤島」の市場に市中心部からシャトルバスを走らせた。市場は自動車部品、楽器、家具などのリサイクル品を商う商人でにぎわい始めた。やがて移転は自然の流れになった。
 ジョコウィは「ゾーニング」を市内のほとんどの露店商に適用した。飲食店、書店、工芸品売りも専用スタンドをつくり収容した。立ち退いた場所には敷石で歩道をつくり木々を植えて、元に戻れないようにした。ソロの街は碁盤の目の構造をしていたことも、ゾーニングを容易にした。
 市場改築はもともと市場にいた零細商人の基盤も強くした。市中心部、オランダ植民地時代に建てられ、老朽化したものを改築したグデ市場協同組合代表のジュマディは「市場は98年の暴動とその後、2回火災に見舞われたが、ジョコウィの改築で零細商人は息を吹き返した」と話した。
 警備隊と露店商のにらみ合いもしばしばあったが、市長の態度は一貫していた。市場や露天商地帯にある「事務所」の撤去では、プレマン、自警団のものだけでなくPDIPのものも撤去した。

■衣料品店、大半は廃業
 すべてがうまくいったわけではなかった。ノトハルジョ市場では、1人で数テナントを借りるリサイクル品商人もいる一方、衣料品店の大半は廃業。当初の移転者から入居者は入れ替わった。移転と同時期にショッピングモールの出店を禁じたため、南に接するスコハルジョ県の市境付近にモール・複合開発の二つが集中。一部の投資が市外にこぼれた。(敬称略 吉田拓史、写真も)

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