【ジョコウィ物語】(12)政治へのいざない 市長選、実業界が推す

 2005年6月の市長選が迫った。「次の市長は政治家ではなく、実業家から出そうという声が地元経済界で高まった」。ジョコウィの家具業者協会(ASMINDO)ソロ支部立ち上げをともにした、親友ムハンマド・ダフィッド・ウィジャヤは振り返る。いまはソロ地方経済開発フォーラム(FPED)代表で地元経済の発展を考える立場だ。
 「98年暴動で大きな損害を受けてから、ソロの経済は元に戻っていなかった」。反華人暴動はソロの商店、デパート、都市基盤を破壊した。華人の投資も本格的には戻っていなかった。「ソロ経済を復活させられる人がいい。金目当ての人はダメだなと」。
 ジョコウィに白羽の矢がたつまで時間はかからなかった。「ジョコウィは成功した実業家だったにもかかわらず、腕時計すら付けなかった。メルセデスベンツだって買えただろうが買わなかった」。工業団地を建設し、家具業者協会を発足させ、実績はある。
 ソロは商業の街。古くはプリブミ(土着のインドネシア人)商人の地位向上を目指したサマンフディ(1868〜1956年)にさかのぼる。オランダ植民地時代の寡占的な華人商人と競争するため、ムスリム・プリブミのバティック商協会をソロに1911年に設立。ソロの競争心豊かな商売人気質を表す人物だ。

■市政に汚職のうわさ
 市政には汚職のうわさがたえなかった。選挙を控え、市長のスラメット・スヤントには複数の汚職疑惑が出て、市議会議員42人は03年市予算を流用したとして捜査が向けられ、議会前で辞職を要求するデモが起きた。人々は新しい風を求めていた。
 ASMINDOの会合の席だった。実業家たちがジョコウィににじりよった。「出馬してほしい」。「私にはもう金がある」。ジョコウィは断った。だが友人たちはそれでも推す。「出れば君ならば絶対勝てる」。皆が声を合わせた。
 ジョコウィは家に帰り家族に相談した。家族は反対した。彼は成功した実業家で、わざわざ市長選に出ることもないと。家族は政治には悪印象を持っていた。だが、一晩たつとジョコウィは決意していた。
 出馬には推薦する政党が必要だ。政治の世界では「乗り物」と呼ぶ。「ソロなら乗り物は闘争民主党しかないと思った」とダフィッド。当時もいまも地元最大政党だ。
 ちょうど闘争民主党ソロ支部長だったハディ・ルディヤトモ(通称ルディ)も相手を探していた。ルディは貧しい家庭に育ち、6歳のとき父をなくし、野菜売りの母は13人の子どもを1人で育てた。川沿いのあばら家は二度も撤去され、「盗みをすることを強いられる境遇だった」と冗談めかす。
 ルディは17歳のとき党の末端党員になり、18歳のときに子どもがいた。医療品工場で働きながら支部長に上りつめ、45歳で好機がめぐってきた。政党の支部長が首長を目指すのはどの地方でも当然のことだ。
 だが、ルディは支部の分裂に苦しんだ。闘争民主党に「乗り」たい人はたくさんおり、ルディを押しのけて出馬を目論む者がいる。推薦をもらえなかった党幹部の現職市長、スラメットは組織の一部を連れて他党から再選を目指した。
 ルディは少数派のカトリック。ジョコウィには資金が豊富にあった。数回の話しあいで二人の利害は重なった。ジョコウィが市長候補、ルディが副市長候補になることが決まった。
 ジョコウィは党員カードを作り、闘争民主党党首のメガワティと会った。ルディが、「こいつは党親衛隊の息子です」と紹介した。「メガワティは、ジョコウィをみてやせているわね。大丈夫なのかしら、と話したんだ」。ルディは思い出して笑った。当時ジョコウィの体重は53キロ。かっぷくのいい男性が好まれるインドネシアで、とてもやせている部類だった。(敬称略、吉田拓史)

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