【ジョコウィ物語】(10)通貨危機で巨額の富 自宅近くに多目的ホール
欧州などへの家具輸出が順調に進み始めたジョコウィは1994年、ソロ北部のスンブル地区に自宅を構えた。市街地からやや離れ、水田が広がる地域だが、両親の旧家や叔父らが住む家から車で約10分の距離だ。
横10メートル、縦25メートルほどの細長い土地で、十字路に面した一角。ここに平屋を建て門や玄関、天井などに木の装飾を施した。最近は近隣に2階建てのガラス張りの高級住宅も増えているので、今となっては地味な平屋だ。
現在、同地区にはジョコウィ一家の家が集まる。2000年に父ノトミハルジョが亡くなり、母スジアトミ(71)は20年以上住み慣れた家からジョコウィ邸の裏側に引っ越した。裏庭でつながっているので行き来は簡単だ。
アチェ生活を終えた2人目の妹イダヤティ(48)も近くに住む。末妹ティティック(45)は母宅の北100メートル。一人目の妹イイット(50)だけが中銀職員の夫とジョクジャカルタで暮らす。
「製材の仕事はもう引退して」という息子の要望を聞き入れて、スジアトミも移転したが、家でじっとしていられない。週2回の体操やマナハン競技場を回るウオーキング。ティティックは「私は2周でギブアップ。母は5周も歩ける」と舌を巻く。
また婦人会や集団礼拝などの集まりにも顔を出す。「我が家は代々、体が丈夫なの」とスジアトミは笑う。母サニ(ジョコウィの祖母)も健在だ。今年102歳。兄ミヨノと暮らすが、スジアトミが毎朝食事を届けに行く。「ジョコウィが行くと、『小遣いくれ』とせがんで笑わせる」。
■家具の廃材を活用
一家の家だけでなく、事業拠点もスンブル地区に構えた。アジア通貨危機が起きた97年以降、ジョコウィは巨大な利益を得る。ルピアは1ドル2600ルピアから1万4千ルピアへと暴落し、ドル建ての恩恵を受けた。輸出先も欧州や豪州、米国、アジア諸国へと拡大。この利益は本業とは異なる形で生かそうと、閑散としていた同地区に多目的ホール「グラハ・サバ」をつくることにした。
ジャワの伝統建築様式ジョグロの建物で、最大1千人を収容。高級ホテルも少なかったソロで新しいタイプの大ホールだ。家具の廃材のチーク材を天井や椅子、インテリアなどに生かした。近年はシンガポールや豪州での留学を終えた長男ギブラン・ラカブミン(25)が配膳会社「チリ・パリ」を設立。同ホールの結婚式などの行事と連携したビジネスを展開している。
■長男は配膳ビジネス
ギブランは、家業は継がない、父とは違うビジネスをしたいとかねてから言っていた。日本料理やイタリア料理も取り扱うなど工夫を凝らし、配膳ビジネスを軌道に乗せた。父が市長や知事、大統領に選ばれても「父は父、自分は自分」と関わろうとしない。選挙戦や投票日のメディア取材にも全く顔を出さない徹底ぶりだ。「頑固なところはジョコウィそっくり」とスジアトミは初孫に目を細める。
ジョコウィは中学の時から長男をシンガポールへ留学させた。家政婦のいる環境で甘やかせたことを反省し、自立を学ばせるためだった。長女、次男も留学した。当時の新興国シンガポールを足掛かりに各国と取引したジョコウィは、まず3人の子どもたちに先進国の教育を取り入れた。(敬称略、配島克彦)