漁港とわたしの40年 「ジャカルタ漁港物語 折下(おりしも)定夫著
日本のODAで建設したジャカルタ漁港に、40年前から関わり奔走・奮闘した1コンサルタントの手記である。折下さんの粘り強さは賞賛に値する。
漁港は面積が東京ドーム17個分、年間の水産物取扱量は約20万トンで銚子や焼津漁港とほぼ同じだ。
スンダ・クラバの沖を埋め立てて新漁港を建設する大プロジェクトは、1973年から日本側調査がスタートした。第一期事業(埋め立て、港湾施設)は1980―83年、第二期(港内道路、電気、上下水道、冷蔵庫など付帯設備)は82―84年で、同年7月竣工式を行い開港した。
しかし地盤沈下など問題山積で、第四期(汚水処理場、地盤かさ上げ、管理棟建設)に加え、リハビリ事業を05―12年に実施した。
埋め立て地の海底の地盤がきわめて軟弱だった。上部10―15メートルが豆腐のような柔らかい粘土、その下も羊かんのような粘土、そこに竹で造った杭を多数打ち込み、上に竹で編んだマットを敷き、その上に石を積んで堤防を造るという先例の無い工法を採用した。
築地のような中央卸売市場の導入も特筆すべきこと。漁港の後背地は水産加工団地になっており、水産加工工場や冷蔵庫が立ち並ぶ。漁船員から工場の従業員まで4万人が働くという。加工品は冷凍コンテナでタンジュンプリオク港から日本や西欧へ輸出され、輸出高は1日1億円を超える。
19世紀後半の明治時代か、パサール・イカン(魚市場)を造ったのは永福虎という日本人だったという。20世紀後半は折下さんチームが新漁港を造った。両国の因縁浅からず。
コンサルタントは海外の現場を飛び回るから、帰宅は年に2、3回。ある時まだ5歳前の3男が言った。「お父さん一日一度は帰って来て」。漁港が完成したとき、折下さんはこう叫ぶ。「私の4人目の子どもです」。胸にグッときた。
ジャカルタ漁港はODAの歴史そのものである。本書のように、その調査・建設・運用の全課程を記録に残す意義は大きい。専門書の色彩が強くなったのも仕方ないとは思うが、写真もイラストも豊富で読者の理解を助けている。
それでも、無い物ねだりのようなことを一つ。インドネシア側ともいろいろな軋轢があったことは、本書でもさらっと触れているが、実際は大変なご苦労だったと思う。切歯扼腕も多かっただろう。逆に窮地を助けられ心底感謝した時もあったはず。そういう起伏がもう少し書き込まれていれば、読み物としてもおもしろくなったのにと惜しまれる。 (臼井研一)
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折下さんの連絡先(メール oris-888@oriconsul.
com)佐伯印刷出版事業部 1620円