【人と世界】「イブイブ〜」日本料理を試して 原田弘光さん(52)
着物にねじり鉢巻。スタジオ内に設置された台所に立ち、観覧の主婦たちに「イブイブ(奥さま方)〜」と声を掛ける。お笑い芸人のようなスタイルを自ら考案。インドネシア語で人気俳優や歌手とコントを繰り広げながら、日本料理の作り方を紹介する。「シェフ原田」は一躍、インドネシアのお茶の間の人気者になった。
2012年、トランスTVの「ファンクッキング」にレギュラー出演した。「テレビの前の奥様たちに親しみを持ってもらえるように、自分でキャラクターを設定した」
矢継ぎ早に冠番組「フル・ハラダ」が制作された。カラフルな法被がトレードマーク。日本刀やうちわを腰に差し、小学校や消防署などを訪問する。「コミカルでちょっとおかしな日本人」が市民の生活に入っていく。もちろん料理は忘れない。食材や味付けなど調理の工程を分かりやすく伝える。
スタッフたちと番組制作にも参加した。ハラルの(イスラム教義に沿った)日本食の作り方を伝えるため、工夫を凝らした。「スシ・ナシゴレン」「ミー・スシ・マキマキ」も披露。冗談を交わしながら、時にはゲストの人気タレントからインドネシア語を教えてもらう。
活躍の場は広がっていった。料理番組だけでなく、人気トークショー「ヒタム・プティ」やコメディー映画にも出演。日本のメディアもシェフ原田の姿を追った。
■実はオーディション
きっかけは12年2月ごろ。南ジャカルタ・ブロックMで、当時営んでいた日本料理店「あじはら」を訪れたテレビ局関係者に誘われた。最初は「芸能界入り」に抵抗もあった。「本業は料理人なのに」と思い悩んだが、妻の「お金を払ってでも芸能人になりたい人がいっぱいいるんだから、やってみたら」という言葉に背中を押された。日本料理をインドネシアの人々に広めたい。テレビを通じインドネシアに来るときから抱いてきた夢をかなえようと思い立った。
■モールで新展開
1979年、青森県津軽から集団就職で上京し、板前の修業をした。「津軽弁を直す」「板前用語を覚える」。新宿のすし店の社長からすしの握り方や会話の仕方を学んだ。87年に転機が訪れる。友人に誘われ、インドネシアにやって来た。初めて見たインドネシアの人々の笑顔が心に焼き付いている。
初めはブロックMでうどん中心の日本料理店の調理場に立った。手打ちのラーメンやそば、やきとりを学び、90年に「あじはら」を開店。以来22年間、ジャカルタ在住の日本人や日本食好きのインドネシア人の舌を楽しませた。
「本格的な日本食をもっと安い値段で、もっと多くの人に食べてもらいたい」。現在は西ジャワ州デポックのチネレモールで弁当屋「アジクー」とラーメン屋「ラーメンシェフ」を構える。「イブイブ〜」。客たちに声を掛けられ、冗談を織り交ぜながら答える。テレビと変わらない優しい笑顔だった。(山本康行、写真も)