【デジタル羅針盤】 変わるもの、変わらないもの
21世紀になってから干支が一回りしても、我々の生活はそこまで劇的な変化をすることなく続いている。
例えば新聞などなくなってしまうと言われ出して随分経つが、伝統的な紙の新聞は発行され続けている。
一度身についた習慣を変更するのは難しい。毎朝配達される紙の新聞を読む習慣がついた人は、よほどのきっかけがない限り、この生活習慣を続けるだろう。
とはいえ、さすがに20年、30年先も毎朝、何百万分部もの新聞が印刷されるということもなさそうに思える。
もちろん、文字で情報を伝える媒体の需要がなくなることはないだろう。だが、文字情報は紙であるという必然性はない。
パソコン、スマートフォン、タブレットなどの電子機器に囲まれて育った世代は、ディスプレイ越しに文字を読むことに慣れている。紙媒体を棄て、もっぱら電子媒体でニュースを読んでも不思議はない。
紙の新聞を支持する意見としては一覧性に優れ、見やすいというものがある。事実ではあると思うのだが、新聞の本質的な価値は信頼性が高い情報で紙か電子かというのはテクニカルな問題に過ぎない。
今は紙の方が見やすいとしても、それは百年かけて洗練されてきた結果であり、逆に言えばこれ以上の向上は見込めない。電子媒体はレイアウト技術、ハードウェアや操作方法の向上が進んでおり、表示される情報の見やすさについても、まだまだ進化できるだろう。
そもそも紙が見やすいというのも、紙世代の思い込みに過ぎないかもしれない。
新聞を例にしてきたが、ある商品、サービスの本質は残り、テクニカルな問題はIT化に限らず、特に世代の入れ替わりに合わせて変化する。
腕時計もこの好例だ。一定以上の世代には腕時計を身につけるのは社会人の常識という認識があるようだが、若年層では腕時計をしない人も多い。腕時計の本質は常に時間を把握し、遅れないように行動することなのだから、携帯電話があれば不要と考える人が出てくるのだ。
何が本質で何がテクニカルな問題に過ぎないかを考えれば、どこにこだわり、どこで柔軟になるべきかが見えてきそうだ。(IkuZo!日本語・マンガ学校校長、元じゃかるた新聞記者 福田健太郎)