【人と世界 manusia dan dunia】イ野球の歴史変えた 野中寿人さん
妻が経営するバリのスパで茶髪の野中寿人(52)はたばこをふかしていた。背後に輝く無数のトロフィーがなければ、誰もこの男がインドネシア代表監督として野球界の歴史を変えたとは気付かないだろう。
■復活から快進撃
「野球がそんなに好きなら、なぜやらないのか」。本気で白球を追いかけていたころから27年が経っていた。あれ以来何をしても長続きせず、自分を冷めた目で見ていた。ただ無意識に野球の昔話はよくしていたようで、その中から出た妻プトゥの素朴な言葉で変わった。日本人チームからの熱心な誘いもあり2006年、硬式野球クラブ「バリ・レッドソックス」の誕生とともに「野球人・野中寿人」が復活した。
その後07年、「弱小」高校バリ代表監督に就任して4位に押し上げる。これが評価され代表監督に。あっという間に上り詰めたが、快進撃は止まらない。09年にアジアカップの優勝に導く。「自分以外、誰もが無理だと思っていた」。代表チームなのに政府から資金が出ず自ら「優勝してみせる」と日本企業、日本大使館を回り、金策に奔走しての栄光だった。
■卒業後の長い空白
空白は長かった。1979年、名門日大三高で正捕手として甲子園に出場。プロ野球球団からの誘いもあったが、明治大に進みたかった。だが日大へ有力選手を送り込むことを義務とされていた監督から頼み込まれ、不本意ながら日大に入学。指導に反発し、半年後に休部した。
ディスコに入り浸る日々が続いた。野球は小遣い稼ぎに草野球の試合に出る程度だった。
卒業後に就いた仕事は続かず、フィリピンに渡る。ナイトクラブなどを経営した。「上手く行き過ぎたことがあだとなり、共同経営者の恨みを買った」。命の危険も感じ、当時懇意にしていた日本人に半ば無理矢理飛行機に乗せられた。悔しくてボロボロと涙を落とした。
日本で職を転々とし、バリに来たのも何気なくだった。事業を始めて、妻となるプトゥと出会った。
■「スパルタ」で反感も
「俺なんかがやらしてもらってる」。過去の自分を振り返って遠慮がちに言う。だが育てるべき選手に遠慮はない。
日本仕込みの「スパルタ」練習は時に反感を買う。タイヤを引かせてグランドを回るなど、インドネシアでは考えられず「虐待」に映る親からは批判が上がる。それでも野中に付いていけばチームは強くなった。「根性論」ではなく理論野球で知られる日大三高の理論を徹底的に教え込んだからだ。
代表チームでは試合直前にラマダン(断食月)に入り、選手は断食を始めた。「断食すれば体重を減らし、練習もままならない」としてさせたくなかった。衝突を覚悟であえて普段より厳しい練習を課した。「馬鹿にされた」と感じた選手は激高。だが勝つためには体重を維持しなければならず、必死で説明し「夜は食いまくって体重を落とさないこと」を約束させた。
常に選手を見て、限界に近いと判断した選手は休ませる。練習後は選手との会話は欠かさない。それが信頼感に繋がる。「親の不安は急成長を実感する子どもたちがかき消してくれる」 。
野球を1度捨てた後悔は常にある。だが09年に退いた代表監督への再登板、15年の東南アジア選手権(SEAゲーム)優勝や子ども・指導者の育成、野球学校の開校‥。子どもが夢を語るかのように次々とやるべきことを挙げる。外国人の監督のため、失敗は一度も許されない。
「最終目標はない。グランド上で死にたい」と覚悟を決めている。(敬称略)(堀之内健史)