暴動から独裁政権退陣へ 当時の指導者に汚職疑惑
15年前の1998年5月13〜15日、目抜き通りのスーパーや商店、銀行などが焼かれた中部ジャワ州ソロにいた。勤め先の事務所は暴徒に破壊されたが、火の手は逃れた。ジャカルタやスラバヤなど各地と連絡を取り合い、暴動が同時多発であることを知った。
暴徒の1人となった知人は「銀行の前にいたら、鎮圧するはずの軍人が笑顔でシラカン(どうぞ)という感じだったので面食らった」と話した。大通りで黒こげになった車の前に集まった人々は「(軍人の)プラボウォが暴動の黒幕らしい」とささやいていた。
数日後にジャカルタへ避難した。18日、レフォルマシ(改革)運動の旗手、アミン・ライス氏がモナス(独立記念塔)で100万人集会を開催すると発表。スハルト大統領(当時)に辞任を迫ったが、翌日、スハルト氏は「憲法に沿って後継者を選ぶべきだ」と続投を表明した。
19日午後、スカルノハッタ空港へ向かった。スハルト氏が「私が今辞めれば内戦になる」と言明したこともあり、空港は華人や外国人らで大混雑。日本政府のチャーター便が次々と運航していたがほぼ満席で、チケットの値段は跳ね上がっていた。
ジャカルタ脱出を取りやめ、都心に戻る途中、スナヤンの国会議事堂の屋根によじ登った学生たちが見えた。高速道路やガトットスブロト通りを通る車はほとんどなく、閑散としていた。20日朝、アミン氏は集会中止を発表、国会の学生たちに合流した。プラボウォ氏の盟友の陸軍ジャカルタ司令官が「治安は問題ない」とテレビで繰り返していた。
このころ、スハルト氏の側近たちが退陣勧告を突き付け、21日朝、スハルト氏が大統領宮殿で辞任を発表、副大統領のハビビ氏が後任に収まった。
当時の合い言葉だったレフォルマシの声が聞かれなくなって久しい。スハルト一族の不正蓄財究明や民主的な選挙の実施、政治と国防を担う「軍の二重機能」廃止などを経て、レフォルマシ運動はわずか4年間で建国以来の憲法改正に結実した。
しかし、当時のレフォルマシをリードし、新政党の幹部となった活動家たちが現在、汚職疑惑で次々と追及されている。20日付日刊紙コンパスは1面トップに「レフォルマシの政策は逸脱した」との見出しを掲げ、政治家らに対する国民の信頼失墜を問題視。改めてレフォルマシは「岐路に立たされている」と指摘した。(配島克彦)