経験共有し真の復興を 東松島とバンダアチェ 東日本大震災から2年 市職員2人を日本派遣
11日で発生から2年を迎える東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市と、2004年のスマトラ沖地震・津波の被災地アチェ州の州都バンダアチェ市が交流を深めている。バンダアチェ市は今月から1年間、職員のハフリザさん(29)とユリ・マルトゥニスさん(32)を東松島市に派遣した。両市が目指すのは、壊れたものを元に戻すだけの復旧ではなく、震災を機により良い地域社会を構築しようという復興。震災の経験を共有することで、ともに真の復興を進める足がかりにしようと取り組んでいる。
大地が大きく揺れ、約2キロ離れた海から波が押し寄せてきた。4メートルはある家の1階は浸水したが、家族全員、間一髪で助かった。だが、あちこちから泣き声が聞こえ、見渡すと故郷の街は黒々とした水で覆われていた。当時大学生だったハフリザさんは04年12月26日朝、西ジャワ州バンドン市から研究調査のため帰省していたバンダアチェ市内の自宅で被災した。
スマトラ沖地震・津波では22万人以上の死者・行方不明者を出した。「めちゃくちゃになった故郷を何とかしたい」。卒業後、バンダアチェ市役所に就職。配属された郡事務所で地域の人が何に困っているか耳を傾け、復興に尽力してきた。インフラが整備されたアチェには今、多くの家屋が建ち、完全に復興したかのようにみえる。「巧遅は拙速に如かず」、壊れたまちを早く元に戻すことに皆、一生懸命だった。
街にはファストフード店ができ、それまであまり見ることがなかったごみ山が現れた。今回の派遣を支援した国際協力機構(JICA)東北の企画役で、05年〜08年にはアチェの復興支援に携わった永見光三さんは「早さを求めすぎた復旧が、アチェの地域社会を市場経済の中に取り込んだ」と話す。ジャワ島や外国の資本が一気に進出し、近代化を押し進めた。天然ガス採掘や農園開発など資源は豊かなはずなのに、単純労働者が増えるだけで地元にカネが入らない。それは中央に利益を吸い上げられる搾取に映る。
アチェの2人を受け入れる一般社団法人「東松島みらいとし機構(HOPE)」の佐藤伸寿事務局長は、アチェを疲弊した日本の地方に重ねる。食糧自給を支えるコメを作るのは地方だが、農村の暮らしは苦しく、若い頭脳は都会に流れる。農家出身の佐藤さんは幼いころ、生活に苦労する父の姿を見てきた。東北の疲弊は震災前から叫ばれてきた。
東松島市は東日本大震災で全世帯の76%が全半壊、千人以上が犠牲になった。「100年先まで〜」のスローガンを掲げるHOPEは、エネルギー生産から雇用創出まで自給自足できる地域社会の創造を目指す。農地にソーラーパネルを設置し、太陽光発電の設備を作ることによる農家の収入増や、農林水産業の副産物を使ったバイオマス燃料の活用を通じ、燃料自給を進めるなどの取り組みを構想している。佐藤さんは「良いものは時間をかけてゆっくりつくることができる。昔からあったものを壊してしまうのではなく、震災を機により良いものにしたい」と話す。
バンダアチェの2人は9日に現地を発ち、10日に日本入り。15日から東松島市でHOPEの実務に参加する。ハフリザさんは「自分たちの経験を日本人に伝えるとともに、日本がどう復興していくのか見て、知恵や技術を持ち帰りたい」と意気込んだ。
両市をつないだのは、アチェの復興を見てきた永見さん。震災直後、ともにアチェを支援したクントロ・マンクスブロト元アチェ・ニアス復興再建庁(BRR)長官(現開発管理調整官)から「被災者のため力になりたい」と連絡があった。BRRの解散により現在は政府機関で働く関係者が被災地を訪れるなどし、東松島市とバンダアチェ両市の協力が具体化していった。(上松亮介)