変わりゆく安宿街 宿泊客との交流希薄に 首都中心部のジャクサ通り

 ジャカルタの目抜き通りであるタムリン通りから、ワヒッドハシム通りを東へ徒歩で約5分、ジャカルタで最も知られた安宿街、ジャクサ通りが目に入る。半世紀近くにわたり世界中のバックパッカーを引きつけてきた通りの変遷を追ってみた。

 南北約400メートルの通りに1泊8万ルピア(約800円)から提供する七つのホステルとレストラン、カフェなどがひしめく。短パンにTシャツ、サンダル履きの白人が通りを歩き、夜になれば、オープンエアーのライブバンドの演奏が流れてくる。ここにドイツやオランダ、フランスなどヨーロッパを中心にアメリカ、オーストラリア、日本など世界中からバックパッカーやビジネスマンが訪れる。
 安宿街としてのジャクサ通りの歴史は、1969年にさかのぼる。「私の父が日本人の協力で、ホステルを始めたのが最初だよ」と言うのは、ジャクサ通りで初のホステル「ウィスマ・デリマ」のオーナー、ボイ・ラワラタさん(58)だ。
 ボイさんが、一家でホステルを始めた経緯を話してくれた。
 日本ユースホステル協会常任顧問で、日本の軍政期にジャワ島にいたことがある金子智一氏(故人)らが、インドネシアに宿泊施設が少ないことを知り、ホステル設立を目的に再訪した。当時、旅行会社の広報部門に勤務し、英語も堪能だったボイさんの父ナタナエルさん(故人)は、協会と旅行会社の交渉窓口を担当。ホステル設立に向けた動きに直接携わるようになった。
 ナタナエルさんは54年、41歳の時に国費留学でアメリカに渡った経験があった。帰国後はアメリカ大使館の職員を自宅に滞在させるなどしており、かねてから宿泊を通じた交流に強い関心を抱いていた。日本協会側と会合を重ねるうちに、自らがホステルを開くことを決意。これがインドネシア初となる国際ユースホステル連盟登録のホステルとなり、その名が各国に紹介されるようになった。
 ナタナエルさんは自宅と、借りた2棟の民家を改築し、ホステルをオープンさせた。当時は一泊200ルピア(当時のレートで約210円)。開業直後は大盛況で、ベッドが足りず床で寝る客がいるほどだった。ボイさんら家族は総出で、当時のジャカルタの玄関口だったクマヨラン空港まで、約5キロの道のりをベチャ(三輪自転車)に乗り、客の送迎を手伝った。  
 10年後、通りには計8軒のホステルが建った。1998年のスハルト政権崩壊後に客足は遠のいたが、1年後には戻って来た。その後も爆弾テロなどの影響を度々受けたが、2007年には最も多い14のホステルが軒を連ねた。
 5、6年前を振り返り、ボイさんは「まだまだ長期滞在が主流で、客と一緒に食卓を囲み、多くの場所を案内して、まるで家族のような付き合いだった」と話す。今では、2、3日程度の滞在が主流。宿泊施設の提供者と利用客という関係を超えることはなく、かつての家族のような濃密な付き合いが失われてきているという。
 インドネシアの堅調な経済成長とは裏腹に近年、客は減り続けている。ハイシーズンの6〜8月はほぼ満室となるが、それ以外は50%ほどの稼働率。近隣には100室以上の外資系ホテルや商業ビル、アパートが立ち並ぶようになった。
 好立地条件ゆえ、土地を売ってほしいという話が後を絶たない。14あったホステルも今では7軒になった。「今後も減り続けるだろう」とボイさん。「ビルやアパートが立ち並び、うちのホステルが小さく見えるよ。でも、私がこのホステルを手放したら、ジャクサの歴史が途絶えてしまう。ここを誇りに思っているからね」
 口元は緩んでいるが、瞳の奥は真剣だった。近くでは、建設中のビルのけたたましい騒音が響いていた。(インターン・小森芳樹、写真も)

社会 の最新記事

関連記事

本日の紙面

JJC

人気連載

天皇皇后両陛下インドネシアご訪問NEW

ぶらり  インドネシアNEW

有料版PDFNEW

「探訪」

トップ インタビュー

モナスにそよぐ風

今日は心の日曜日

インドネシア人記者の目

HALO-HALOフィリピン

別刷り特集

忘れ得ぬ人々

スナン・スナン

お知らせ

JJC理事会

修郎先生の事件簿

これで納得税務相談

不思議インドネシア

おすすめ観光情報

為替経済Weekly