【火焔樹】 いい加減であること
高速道路の料金所の電子カードで料金を支払うゲートに誤って入ってしまった。前方は遮断器が閉まっており、後ろには他の車が順番を待っていて引き返すことも出来ない。
困り果てたその時、警備員さんが来て窓越しに料金を徴収してくれた。それで事は済んだかと思いきや、警備員さんは後ろの車に行き、私から徴収した料金を渡し、その車の運転手さんが持っている電子カードをもらい、引き返して来てそのカードで私の高速代を支払い、そのカードを速やかに後ろの車の運転手に返した。
つまり、後ろに控える車の電子カードで私の高速代を支払い、私のお金でカードから引かれた分を返したわけだ。私は窓から顔を出し、後ろの車に向かって「テリマカシ」の気持ちを示すため手を振った。後ろの運転手さんもニコニコしながら私に手を振った。
この時の警備員さんのとっさの機転はたいしたもの。時間にして1分にも満たない。日本であったらどうなっていたか。論理的にはカードから引かれた分が戻ってくるわけだから問題ないはずだが、「そういう問題ではない」ということで一悶着あっただろう。
インドネシアではこういう「融通が利く(toleransi)」場面は至るところで見受けられ、発想が柔軟すぎて公私の見境がつかない。それが原因で緊張感のない人間関係があちこちにはびこり、腐敗しきってしまった社会の一部はあえて今日は論ずることはやめておこう。
要は、決まりは決まりと堅苦しく一つの物の見方に固執してしまうことや、臨機応変に対応することが比較的苦手な人が多いことが今の日本の閉塞感を引き起こす一つの要因となっているような気がする。そういう人たちにはインドネシアの社会の、あえて「自由闊達」と表現するが、そんな物の考え方を取り入れると丁度いい塩梅(あんばい)になるかなと思う。
私もあと10年インドネシアで暮らすと、ちょうど両国で暮らした期間が半分ずつとなる。まだほんのちょっと日本的な発想が強いかなと認識する性格も、その頃には文字通りハーフと呼ばれるに相応しい「柔らかさも固さも」兼ね備えた「いい加減な人」になっていたい。(会社役員・芦田洸)