「清い人生だった」 日イ交流に尽くした小倉みゑさん SJS校長の長さんが紹介 ジェトロセミナー

「清い人生だった」 日イ交流に尽くした小倉みゑさん SJS校長の長さんが紹介 ジェトロセミナー  日本貿易振興機構(ジェトロ)ジャカルタセンターは三十日、南ジャカルタ、スミットマスビルの同センター事務所で、スラバヤ日本人学校(SJS)校長の長洋弘さんを講師に招き、日イ友好親善に力を注ぎ、二〇〇九年春の叙勲で旭日双光章を受章し、二〇一〇年三月に八十八歳で死去した小倉みゑさんの人生や交流などについて話す「インドネシアにささげた愛(小倉みゑの人生)」と題するセミナーを開催した。   一九八〇年代のジャカルタ日本人学校(JJS)勤務時に元残留日本兵の存在を知り、その後、「帰らなかった日本兵」などの著書もある長さんは「みゑさんとはかれこれ、二十年くらいの付き合いだった。時折、自分の子どものように手厳しく指導してくれた」と小倉さんとのかかわりを振り返った。  長先生は当初ジャカルタ勤務を希望していたが、小倉さんと同じスラバヤで、今年四月から勤務となった。「これもみゑさんとの何かのご縁」と話す。  小倉さんは第二次大戦中、スラバヤに海軍士官クラブの会計係として滞在。一九四五年八月、敗戦の直後から、インドネシアの海軍病院の看護師助手として抑留生活を送った。四六年、インドネシアから復員。五〇年には、東京・築地に料理店「すゞろ」を開いた。五〇年代は、群馬県にある女子少年院に、ボランティアで自作のおはぎを送っていたという。  戦時中にお世話になったインドネシアに恩返しをしたいと、満期となった自身の生命保険など約二千五百万円を投じ、九五年にインドネシアで日本語学校「ミエ学園」を設立。その後もこつこつと貯めたお金を、インドネシアの子どもたちへ奨学金として贈るなど日イ親善に尽くしてきた。  長さんはその後、元残留日本兵互助組織「福祉友の会」が一九七九年に創立される経緯や、同会の創設に奔走し、中心的存在だった故・乙戸昇さんの人生や小倉さんとの出会いなどについて説明。  小倉さんが亡くなったときのことについて、遺書には、葬儀はしない、自分のために人を集めない、お金は残っていない、「すゞろ」のお店を閉める、死んだことを誰にも知らせない、慈恵医大に対し献体の手続きが済んでいることなどが記してあったといい、長さんは「とても清い人生だった」と講演を締めくくった。  その後、福祉友の会発起人会長のヘル・サントソ衛藤さんが特別スピーチとして小倉さんとの交流について振り返った。  「あら、いらっしゃい」と「すゞろ」のカウンターで声をかけてもらったことが印象に残っているといい、「八十を過ぎてもいつも美しい顔で、いつも他人の幸せを喜ぶ人だった」と話す。  「みゑさんのように、公のために貢献することが大事」と強調。平和な時代の経済戦争の中、「戦友会として始まった福祉友の会を心の友の『心友会』にしていきたい」と語った。 「残留日本兵を抜きにして、みゑさんを語ることはできない」と話す長さん

 日本貿易振興機構(ジェトロ)ジャカルタセンターは三十日、南ジャカルタ、スミットマスビルの同センター事務所で、スラバヤ日本人学校(SJS)校長の長洋弘さんを講師に招き、日イ友好親善に力を注ぎ、二〇〇九.....

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