「組織的な人権侵害」 共産党粛清・射殺事件 国家人権委 初の報告書 歴史の闇、真相究明を
国家人権委員会は23日に1965―66年に発生した共産党(PKI)シンパ大量虐殺事件、24日に82―85年に発生したプレマン(チンピラ)の連続射殺(ペトルス)事件に関する調査報告書を発表した。それに先だって20日には報告所を最高検に提出、捜査を要求した。長期独裁政権を築いたスハルト元大統領を最高責任者とする治安関係者による組織的な人権侵害との見解を表明したが、事件から数十年経過し、スハルト氏をはじめとする当事者の多くはすでに死亡しており、同委は捜査当局が歴史の闇に葬られたままの真相を究明した上で、国が被害者やその遺族に謝罪すべきだと訴えている。
国家人権委は2008年、両事件の特別調査班を編成。PKIシンパ虐殺事件は、被害者が大半を占める目撃者約340人に、ペトルス事件では約100人に、全国で聞き取り調査を実施した。
被害者の証言を基に作られたPKI虐殺事件の報告書は、当時治安維持を指揮したスハルト氏ら治安秩序回復作戦本部による殺害や拉致、強姦など当時の人権侵害状況を詳述した。
報告書によると、南スマトラ州パレンバンのクマラウ島には強制連行された被害者らが収容され、虐待などで死者が続出。中部ジャワ州スラゲンで約300人、東ジャワ州スラバヤで約600人など、地域によっては死者の推定数も列挙された。
マルク州ブル島では被害者が国軍兵士の監視下でダム建設など強制労働を課され、収容者の妻たちの約90%が性的行為を強要されるなどした。ブル島では約1万1500人が強制労働に従事したと指摘。証言から得た人権侵害の様子を地域ごとにまとめた。
■「反乱者名簿」作成
人権委は、治安秩序回復本部が発布した命令書、人事・組織に関する書類などを調べた上で、作戦の指揮命令系統を分析。各地の陸軍師団司令官やその部下が「処分すべき反乱分子」の名簿を作成し、これに基づいて虐殺や拉致などが行われたと指摘した。
殺害された被害者総数は明言していないが、現在も行方不明となっている拉致被害者は3万2774人、強制移住を余儀なくされた市民は4万1千人、軍人による強姦は35人とした。
責任の所在は暴力事件の拡大を阻止できなかった軍幹部にあると強調。スハルト氏をはじめとする治安秩序回復作戦本部幹部のほか、政治犯収容所16カ所、拘置所・刑務所7カ所の幹部らの責任追及を要求。特別調査班のヌル・ホリス代表は「国として、ユドヨノ大統領がこの問題に謝罪するなどの姿勢を示すべきだ」と話した。
■軍警察は調査拒否
人権委はまた、スハルト政権が安定期を迎えつつあった82―85年に全国各地で発生したペトルス事件の調査を実施。実業家や市民に恐喝をしているとして、司法手続きを踏まずにプレマンを次々に殺害した治安当局の作戦は人権侵害だと主張した。
調査では計115人の証言を得たが、治安当局関係者からは軍人2人、警察官2人にとどまり、軍と警察からの協力は得られなかったと説明。事件発生場所10カ所の調査を実施し、当時の報道などと照合した。
また、大通りや市場、河川、海岸などで発見された遺体の数、銃殺や刺殺などの特徴、作戦を説明する軍や警察の地元幹部の発言などに関する記事も引用し、「組織的に関与した人権侵害事件」と断言した。
スハルト氏は自伝で「人道に反する犯罪者には厳重措置を講じる必要がある」と強調。「ショック療法は効果があった」「おぞましい犯罪は収まった」と述懐している。
◇共産党(PKI)シンパ大量虐殺事件
1965年に共産党系の国軍若手将校らが決起し、国軍将校を殺害したクーデター未遂の「9.30事件」以降に発生。共産党シンパとみなされた市民が全国各地で虐殺され、被害者は数十万人に上るとされている。
◇ペトルス事件
1982―85年にジャワ島を中心に全国各地で発生した連続射殺事件。プレマン(チンピラ)などが標的になった。被害者の遺体は発見時、袋に詰め込まれ、公共の場所に遺棄され、1万ルピアが遺体の上に置かれるなどの手口が横行した。