【火焔樹】 我が学友たち
三十年以上前に地元の高校へ通っていた時の同窓生五人に会った。一人は、女性で大病院に勤務する小児科医、ほかは男性で、有名な投資会社の社長、国営鉱山会社の役員、国軍の少将、外資系自動車会社の社長となっていた。みんな羽振りが良いらしく、医者の彼女は、子ども三人をインターナショナルスクールに通わせ、今年の海外旅行は家族そろってニューヨークへ行くと言っていた。投資会社の社長は、スディルマン通り沿いのゴルフ練習場をスハルト元大統領の息子から買い取ったそうだ。ほかにも、新車の話や日本株の話など、庶民レベルの話からは程遠い話題で盛り上がった。
皆日本へ行ったことがあるらしく、全員、私のことを周りの日本人に「知っているか?」と尋ねたそうだ。そりゃ誰も知るわけがないが、覚えていてくれたことに喜びを感じる。それと同時に、「ダメもとでもとにかく聞いてみる、チョバしてみる」というのは、やはり、インドネシア人にしかできないことだと思った‥。
我々が通っていた学校は、北スマトラの小さな田舎町にあった。当時を振り返れば、生徒の親は農園で働いているか、地方公務員として働いていてそれほど裕福な環境の子弟たちはいなかった。まさにド田舎の純粋な学生で、将来、インドネシアの大都会にてこんな成功を手にする人が出るとは思ってもみなかった。
当時の私は、自分が卒業した東京の中学とこの高校を物理的に比較し、すべてに劣るこの学校をけなしていた。「トイレがない」「図書館がない」「実験室がない」「電気がない」「雨漏りがする」などなど、勉強しないのは、あたかも学校の環境が悪いからという口実を作っていたようだ。
三十年を経て再会し、当時の「ひねくれた自分」を悔い、彼らの成功を心より喜んだ。田舎であろうと何がなかろうと、当たり前のことだが、「勉強するしない」や「努力するしない」はまったく別の次元なのである。ある意味、彼らは日本よりも厳しい社会を見事に生き抜いてきたのだ。インドネシアの着実な発展を我が学友を通して確認した一時だった。(会社役員・芦田洸)