「生まれたこの島が好き」 ランプン州スベシ島  津波の恐怖超えて帰郷

 2018年12月22日のスンダ津波発生後、全島民の8割に当たる約2300人が自主避難したランプン州スベシ島。津波の発生源となった火山島アナック・クラカタウの北東15キロに位置する。津波で4歳の男子1人が死亡し、60人が負傷、多くの建物が損壊した。1年が過ぎた現在、避難民は島に戻り、かつての生活を取り戻しつつある。その中には、故郷の被災を機に、出稼ぎ先から戻ることを決めた人の姿もあった。         

 18年12月22日夜、スベシ島出身で、5カ月前からバンテン州チレゴンで建設現場の作業員をしていたムスリヒン・ルビスさん(当時39)が自室で寝ていると、北スマトラ州にいる兄から電話がかかってきた。「テレビを見ろ、津波だ」。出るなり兄はそうがなった。驚いてテレビをつけるとランプン州の被災地の映像が映された。アナック・クラタカウで発生したらしい。
 同山からすぐそばのスベシ島には、8歳からの幼なじみで06年に結婚した妻(同39)と息子(同10)、娘(同4)がいる。「家族は無事なのか」。あわてて妻に電話したが、何度かけてもつながらない。夜のうちに自宅を飛び出した。
 乗り合いバスでバンテン州メラック港へ行き、小型船でスマトラ島へ渡る。23日に、スベシ島との定期船があるランプン州南ランプン県カリアンダの港に着いた。だが、船の運行は止まっていた。翌24日、焦るムスリヒンさんの前に、島へ生活必需品(スンバコ)を運ぶ政府の支援船が現れた。「俺も乗せてくれ。家族がいるんだ」。懇願すると乗船の許可が下りた。
 家族との連絡はつかないまま。船の上からは、港の桟橋が崩れ、海岸の家々が壊れているのが見えた。港から2キロほど離れた家に走った。扉を開けると、妻と子どもたちが寝ていた。服はボロボロで、足は擦り傷だらけ。だが無事だった。言葉は出ず、泣きながらしばらくの間抱き合った。
 島では22日夜、釣りをしていた島民が潮が引いているのを見つけ、避難を呼びかけた。妻たちはこの日まで、携帯電話の電波が届かない山の高台で避難していたのだった。
 26日、国家防災庁(BNPB)から避難船が来ると発表があった。激しい雨の中、他の住民と共に港で救助船を待った。船影が見えると歓声が上がった。だが、乗船は女性と子どもが優先。ムスリヒンさんは取り残され、島を出られたのは28日だった。避難先となったカリアンダのテニス場で家族と再会した。避難所は人であふれ、夜、横になるのも一苦労だった。
 2週間ほど過ごした後、妻が島に戻りたいと言い出した。避難所生活は限界だった。子どもたちも賛成した。「また津波は来るかもしれない」。ムスリヒンさんは不安だったが、妻は「それでもいい」と訴えた。
 ムスリヒンさんはチレゴンでの仕事を辞め、一緒に島に戻る決心をした。「もう家族と離れ離れになるのは嫌だった」
    ×   × 
 現在の島民は約2800人で、自主避難前とほぼ同数に戻っている。中にはムスリヒンさんと同様、津波を機に、出稼ぎ先から帰って来た人もいる。津波はアナック・クラカタウの南東部が崩落して発生したとみられ、北東にあるスベシ島の被害は他の被災地と比べ大きくなかった。
 それでも島の海岸部にはまだ住居のがれきが残り、壊れたままの道路もある。住民が協力して撤去や再建をいまだ進めている最中だ。港に津波の警報装置が付き避難道が整備された。
 ムスリヒンさん一家は19年1月に島へ戻り、ココナッツやバナナなどの栽培で生計を立てている。収入が全くない月もあるが、島の住民たちと助け合いながら生きている。「生まれたこの島が好きだ。これからも家族と守っていく」。ムスリヒンさんはそう話し、海を見つめた。(大野航太郎、写真も)

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