抵抗するバンダ人 容赦ないオランダ
バンダ諸島のロンタール島を征服したオランダ東インド会社(VOC)の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンに対し、島の数人の主なオラン・カヤ(有力者)が船上のクーンを訪ね、金の鎖、銅製の鍋を携え講和を求めた。クーンは、全てのバンダ人の砦(とりで)を壊すこと、武器を引き渡すこと、挑発を止めること、そしてオラン・カヤの息子たちを船上に捕虜として留めさせることを要求したところ、オラン・カヤは了承した。今後VOCとのみ取引し、オランダの統治権を認めることも命ぜられた。そしてオランダでは反逆行為は死刑であることについての同意書にも署名した。
オラン・カヤは、スパイスの収穫から10分の1を税として払い、残りは決められた価格でVOCにのみ販売することに同意した。オランダ側は、バンダ人の敵からの保護、財産・宗教・オラン・カヤの権威を守ることを保証した。
しかしながら、バンダ人は講和条約を守ろうとはしなかった。オランダが要求した銃の供出の際、島民は使えるものは手許に隠し、差し出した銃はさびだらけで使いものにならないものであった。香料はVOCにのみ売り渡すというオランダの独占を保証した契約を破り、秘かにジャワ、ブトン、マカッサル、マレー、それにイギリス人らに売った。
彼らが破壊した砦にはすぐ砲台が取り付けられた。原住民の大半は山地に逃げ、そこを拠点にしてオランダ軍兵士を襲った。その間、クーンは巨大なホランディア要塞の建設を始めた。
その要塞は、ロンタール島の山の峰に立ち、石の階段でアクセスしやすく、周りの海域を見渡せる好位置に造られた。ロンタール島の住民の大半は、オランダの攻撃が始まると高い山の中に逃げ込み、ナツメグの実を摘むために低地に戻ってくることはなかった。
オランダは山に逃げ込んだ逃亡者達をあらゆる手段で連れ戻そうとするが、うまくいかなかった。クーンはロンタール島だけではなく、ネイラ、アイ、ルン島でも家々を焼き払い、避難民の隠れ場を急襲した。老若男女、老人も子どもも含む住民のほとんどが殺されたり、バタビアに連行され奴隷として売られた。数は少ないが幾人かのバンダ人は、セラム島、カイ島、アル島に逃れた。バンダ諸島全体で8千から1万人程度の元の人口のうちのわずか千人に満たないであろう人が、ルン島およびアイ島で生き残ったようだ。
この二つの島では、イギリス人の存在がオランダに対してさほどの防衛にはならないが、残虐行為に対しては多少の歯止めにはなったであろう。
クーンはその後、この世界で唯一のナツメグ生産拠点であるバンダ諸島に、オランダ人入植者と彼らのために働く奴隷労働者を再び住まわせた。彼らは生産物の全てをオランダ東インド会社に提供することになった。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)