アイ島を征服 オランダ軍が支配
バンダ諸島に次にやって来たオランダ東インド会社(VOC)の総督は、前任者がVOCの重役会である「17人会」から受けていたのと同様の指令を受け、バンダ人に全てのスパイスをオランダに提供することを要求した。一方バンダ側は、オランダに対して新旧二つの要塞を破棄してほしいとの要求に固執し、それ以外のどんな話し合いにも応じないという強い態度をとった。オランダの要塞は外敵からの攻撃を防ぐためだけではなく、地元民の反乱を防止するものでもあったのだ。
VOCの総督は、ルン島とアイ島の住民がイギリスの支援を得て、ロンタール島やネイラ島にまでオランダに服従しないよう扇動していることを強く非難し、モンスーンの風が変わった時にまずアイ島を攻撃することにした。
オランダ軍に属する約900人のヨーロッパ人と日本人の傭兵(ようへい)がアイ島に向かった。彼らが受けていた命令は島を奪い取ることであった。この時の島の人口は1800人で、うち武装した成人男子は500人だった。島民はイギリスの指導で、海岸から山の方にいくつか築いていた小さな堅塁を利用し、オランダ軍にしつこく抵抗したが、夜まで続いた1日の戦いで、オランダ側は険しい山の中の最後の堅塁を除いてアイ島をほぼ征服した。
1616年、オランダはアイ島を攻撃し完全に支配した。荒れる海の中、ルン島に逃げようとしたバンダ人400人がおぼれて命を落した。オランダは島で一番の砦(とりで)を修復・増強し、レベンジ要塞と名付けた。この要塞の地下牢(ろう)に何十人ものイギリス兵が投獄され、過酷な扱いを受けたとの記録が残っている。オランダはそこに約150人の駐屯隊を置き、地元の人々があれほど嫌がっていたオランダ人へのナツメグの供給をせざるを得なくなった。
バンダ諸島のうちで、今やルン島だけが毅然としていた。ルン島はわずか4キロ×2キロ程度の小さな島だが、全島ナツメグの木に覆われていた。オランダ軍に占領されない唯一の島であり、VOCといかなる協定も結ばない唯一の島であった。
オランダは、ルン島に逃げたりして居なくなった労働者の代わりを探さなければならなかった。ハルマヘラ島の一時スペイン人がいたところや、ポルトガル人がいた小スンダ列島などから捕虜、犯罪者、奴隷、解放奴隷の総勢800人(中にはスペイン人やインドの兵士も含まれていた)を移住させ、オランダ軍の監視の下、ナツメグの摘み取りと加工作業に従事させた。しかしながら、ナツメグは収穫のタイミングが難しく、また適切な方法で摘み取り、太陽光か炉でうまく乾燥させなければならない。メースはさらに繊細な扱いが必要だ。外から連れてきた人々にそのようなスキルを身につけさせるのに、多くの時間を要した。
オランダ人は、征服したバンダ人と公式な契約締結を要求し、ロンタール島とネイラ島の最も有力なオラン・カヤを含む100人の人質を取った。ロンタールやアイの指導者たちは、ナツメグの価格は20%下げられ、メースは70%上げられた以外は、以前の条項とほとんど同じ内容の契約を確認した。ネイラ島とハッタ島も同意したが、イギリスが占領しているルン島はその例外であった。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)