最強の「株式会社」登場 オランダが次々商館建設
オランダ人はバンダ諸島ロンタール島に本国から持ち込んだ商品を貯蔵し、ナツメグ・メースおよびアンボンから運ばれた丁子と交換することにした。品質、価格が千差万別で、少量のスパイスしか提供できない地元の多くの人々との交渉に難儀し、結局のところ、ほとんどのスパイスは中国人やアラブ人から買っていた。
バンダでのオランダ人の成功は、マラッカのポルトガル人に知れるところとなり、ポルトガル人はジャワから遠征してオランダ人を追いやろうとしたが成功せず、バンダはオランダの支配下に入っていくようになる。
バンダの小さな拠点はその後、要塞と商館兼スパイス倉庫として造り直された。商品の値段だけではなく、女性、宗教、武器などにまつわる地元住民との争いが絶えなかった。オランダによる次のバンダへの重要な訪問者は、1602年2月に到着した提督ウォルペルト・ヘルマンゾーンであった。オランダはポルトガルの攻撃に抵抗しなければならなかったが、それ以上にバンダ諸島の最も西に位置するルン島に陣取っていたイギリスを看過できない状況にあった。
オランダ政府は1602年3月、ポルトガルとスペインに対抗するには国家で管理すべきとの方針で、オランダ東インド会社(VOC)を設立した。VOCは、2年前に設立されたイギリス東インド会社の10倍の資本金を持った世界最初の株式会社とされている。イギリス東インド会社が一航海ごとに出資者を募り、その都度利益を配分したのとは違い、本格的に組織化された株式会社の形態を備えていた。商取引の独占権を与えられただけでなく、軍隊を持ち、条約締結、法の施行、貨幣の鋳造すら可能であった。
VOCは1603年に西ジャワのバンテンを、1605年にはアンボンをポルトガルから奪い、次々に商館を建てていく。ペルシャから日本(長崎)に至る領域に20を超えるVOCの商館が存在した。その中でも、規模の大きいのは、アンボン、バンダ、インド(コロマンデル)、セイロン、マラッカ、喜望峰、ジャワ北海岸、マカッサルなどの商館であった。
■イギリス人の到来
イギリスのマルク諸島の開拓は、フランシス・ドレイク卿(1543~96年)がマゼラン艦隊に次ぐ世界で2番目の世界周航の際、1579年にテルナテに立ち寄ったことに始まる。
バンダ諸島ではイギリスはオランダから距離を置き、西に位置するルン島とアイ島の占領を企てた。両島に基地を置くまでのイギリスの動きについて見てみよう。
イギリスのエリザベス1世(在位1558~1603年)の後援をうけたドレイクの船団が1577年、イギリスのプリマスから出港した。この探検隊の表向きの目的は南太平洋の住民と通商条約を結び、南半球の陸地を探検することにあった。女王は、スペインの船を襲って財宝を略奪するという無条件の許可をドレイクに与えていた。ドレイクの船団はいわば公認の海賊船であり、ゲーテの「ファウスト」の中に出てくる言葉であるが、「海賊と軍隊と商業とは三位一体」を代表するものであった。
ドレイクの船団は南米大陸南端のホーン岬を回り、その西岸を北上、太平洋に出て香料諸島を目指して西に進んだ。ポルトガルが初めて東インド諸島へ着いてから60年以上経て、イギリスの船は香料諸島にたどり着いたのだ。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)