忘れられる存在に 植民地政府が誕生
テルナテとティドレのスルタンとその臣下たちの生計はオランダ東インド会社(VOC)からの俸給に頼っていたので、住民たちはスルタンをVOCのとらわれのように見ていた。そういう中ではあったが、1780年ティドレのヌク王子(1738~1805年)が、セラム島を基地としてVOCに対して反乱を起こした。ヌク王子の支持者たちは83年、ティドレの砦(とりで)に陣取り、スルタンを護衛するために配備されていた兵士を含めオランダ人を殺害した。
VOCはこれに激怒し、大軍を派遣して反乱軍をセラム島とパプアに追いやった。そこで思いがけず、隠密に丁子とナツメグの取引をしていたイギリスの東インド会社と遭遇し、ヌクの率いる反乱軍はイギリスの支援を得ることができた。自信を取り戻したヌクは、自分の後を継いだティドレのスルタンにオランダを追いやるために共に戦おうとの書状を送った。
イギリスは、単に香料のためだけではなく、高い収益の期待できる中国との貿易に従事したいという新しい狙いで、マルクへの関心を取り戻していた。中国のお茶がイギリス東インド会社の最ももうかる商品となっていたのである。ヌク王子は、マルク、パプア、セラムのスルタンであると宣言し、東方ルートを支配することにより、イギリスの盟友となった。
1795年、フランス革命軍がオランダに侵攻しアムステルダムを占領したため、ウィレム5世はロンドンに逃げた。オランダの海外の領地を全てイギリスに引き渡すことになった。96年、イギリス艦隊は、アンボンのビクトリア要塞沖で投錨した。オランダの司令官は抵抗することなく、イギリス人を迎えた。あの恐ろしいアンボン事件により、屈辱的な撤退をしたイギリス東インド会社であったが、イギリス商人たちは173年ぶりにアンボンに戻ってきたのである。
ヌク王子は1801年11月にティドレのスルタンとして正式に就任した。しかし、02年にアミアン講和条約(英仏間の和約)によってヨーロッパに平和が戻ると、その1年後にはマルク諸島はオランダに返還された。ヌクの短い栄光の期間は終焉を告げ、05年に死去した。こうして、かつては輝かしいスルタン王国であり世界の注目を集めた香料諸島のテルナテとティドレ島は、次第に忘れられる存在になっていったのである。
■オランダ領東インドに
オランダは1799年にVOCを解散し、1800年にはインドネシアを直接オランダ国の統治下に置くため植民地政府「オランダ領東インド」(インドネシアと称する国名はまだなく、日本語で蘭印、オランダ語で Nederlands-Indië、英語で Dutch East Indies と呼ばれた)を樹立した。支配する領域を徐々に拡げていき、20世紀初頭には東西5100キロにわたる現在のインドネシアの国土をほぼ完全に掌握した。なお総督府は、バタビアから南へ約60キロ、標高260メートルにあるボイテンゾルフ(現在のボゴール)に置かれた。緑に包まれたボゴールは灼熱のバタビアより少しは気温が低いので、オランダ人が好んだようだ。
1807年ナポレオン戦争により、オランダ領東インドはフランス帝国に吸収されたが、イギリスがインドの戦力を召集し、1811年にはジャワへの侵攻に成功。イギリス東インド会社がオランダの植民帝国を支配することになり、副総督に昇進しジャワの支配者となったトーマス・ラッフルズ(1781~1826年)は、これまでのオランダ政府の方針に対し傍観姿勢を見せながらも、原住民への圧政を改める努力もしている。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。