移植された丁子、ナツメグオランダ独り占め終わる
オランダの独占権のおよばない所では、少量ではあるが取引が続いていた。テルナテ、ティドレや、そこから移植されたハルマヘラ、セラムなどの丁子は、マカッサルやマニラ、ポルトガル領の東ティモールなどに密輸されていた。とりわけマカッサル港は、ジャワ、アラブ、ポルトガル、スペイン、イギリスの商人たちが群がり、自由に取引をしていた。しかしながらその後マカッサルも、オランダの攻撃から逃れることはできず、1669年にはオランダの軍門に下っている。
オランダ東インド会社(VOC)は今や世界がこれまで見たこともない豊かな会社となり、150隻の商船、40隻の軍艦を保有し、1万5千人の兵士を含む3万人の従業員を雇っていた。丁子とナツメグの独占を打ち破ろうとする勢力に対しての香料諸島でのVOCの締め付けは、完璧であった。
香料ビジネスでオランダがバタビアで富を積み上げたのを見て、丁子とナツメグの苗木を盗みだすことを考えたピエール・ポアブル(1719~86年)というフランス出身の植物学者がいた。持ち帰った丁子、ナツメグの苗木の移植に何度も失敗するが、ポアブルの不断の努力の結果、丁子はアフリカのザンジバルとモザンビーク北東部などで、ナツメグは西インド諸島で立派に育つようになった。この一人の男のおかげで、丁子とナツメグは世界の熱帯地方で栽培されるようになり、オランダのクーン提督によってあれほど厳しく管理されたマルク香料諸島でのオランダの独り占めは終わったのである。
このポアブルとは別に、香料貿易のオランダの独占を破りたいと考えていたイギリスも、マルク諸島から丁子とナツメグの苗木を盗み出し移植を試みた。18世紀末には、スマトラ西部のベンクーレンに大量の苗木を移植することができ、そこから丁子とナツメグをイギリスに向け出荷した。
イギリスは丁子とナツメグが、イギリス東インド会社がこしょうのために建設した植民地ベンクーレンを救ってくれるであろうと、ベンクーレンから手を引くその日まで期待し続けたが、農園を維持するには多額のコストがかかり、必ずしも成功したとは言えなかった。
■VOCを国有化
オランダ東インド会社は2世紀にわたり世界で最も強力な貿易会社であったが、次第に経費の高騰に加え、香料価格の低下により、財政状態が悪化した。香料は容易に手に入るようになり、需要は減退し、もはやぜいたくで高級なシンボルとなるような品ではなくなった。香料は、茶、コーヒー、チョコレート、タバコなどとの競争になった。また、新世界からのトウモロコシ、ジャガイモ、トマト、唐辛子が食卓にあがるようになった。丁子とナツメグの新しい供給地であるフランスの植民地とも競合した。
そして次第に資金不足の状態が恒常化して、オランダ政府は1799年にVOCを国有化した。国が全ての負債・資産を引き継いだので、VOCの海外資産も全てオランダ植民帝国の一部となったのである。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。