スペインは消えたが オランダの戦略

 スペインが勝利したので、敗れたオランダはテルナテ島の東側に上陸し、ポルトガルが放棄したマラヨ要塞(ようさい)を占拠し、改修することによって強固な要塞に造り変えた。スペインは秘かに島に渡ってマラヨ要塞を襲ったが失敗し、ガマラマ要塞に退却した。これがオランダとスペインの最後の軍事衝突となり、以降は不安定な平和であった。両国は島の反対側、つまりテルナテの東はオランダが、西はスペインが、それぞれの砦(とりで)で、丁子を集荷し貯蔵した。その後スペインは、次第にマルクの基地を維持することに興味を失い、1663年にはテルナテの要塞を放棄することを決定した。かくして1521年にマルク諸島に足を踏み入れてから浮き沈みのあった140年に及ぶスペインの香料諸島でのプレゼンスは終わったのである。
 オランダは当初、地域の内政には干渉しない、興味のあるのは貿易だけであるという態度を取っていたので、島の人々はオランダとはインフォーマルな形で同盟関係を続けられると思っていた。これは原住民の支持を得るためのオランダの戦略であったが、オランダ東インド会社(VOC)の第4代および第6代総督となったヤン・ピーテルゾーン・クーン( 1587~1629年)の政策は、決してそのような穏やかなものではなかった。これによりマルクの人たちが最後に悔やむことになっていくのである。
 オランダの港町生まれのクーンは、自分をさえぎる者には容赦ない行動を取る厳格な性格で、オランダのインドネシア植民支配の基礎を築いたレジェンドである。東インドへの航海は、1607年にVOCの社員としてアムステルダムを出た時に始まっている。09年にはナツメグの実るバンダ諸島行きの船団の一員として参加。順調に昇進し、13年にはこしょう取引が盛んなジャワ島北西部のバンテンの長官となった。そして5年後の31歳の時には、東インド会社の総督となっている。意志堅固なクーンは、本社の17人重役会にも躊躇(ちゅうちょ)することなく意見を述べ、誰も彼を止めることはできなかった。こしょう、丁子、ナツメグがアムステルダムにもたらす高い収益の故、誰も彼に逆らえなかったのである。

■バンテン支配へ
 VOCの最初の3人の総督時代には、本部はアンボンに置かれていたが、マラッカとスンダ海峡からは遠く不便である。船の修繕、香料の貯蔵、そして軍の本部および管理本部としてジャワ島に中心となる基地が必要である。クーンはバンテンで会社の取引独占権を得るべく模索したが、バンテン王国は、国際的な貿易港として発展しているバンテン港についてはどの国にも独占権を与えるような考えはなかった。クーンは次に、東隣りのスルタン王国であるジャヤカルタの王子と交渉した。バンテンの属国であったジャヤカルタは、バンテン王国からの独立を望んでいたので、王子はオランダとの交渉に前向きに対処した。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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 「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。

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