【魚の町とインドネシア】(中) 「家族のような存在」 生活に溶け込んだ研修生 震災から1年の気仙沼
東日本大震災の発生前、宮城県気仙沼市では遠洋マグロ漁業の船員だけでなく、水産加工工場でもインドネシア人が働いていた。
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雪が沿道に残る二月末、「あの日も、津波から逃げた後に雪が降り出したんだよ」と振り返るのは、主にふかひれを加工販売してきた福寿水産の臼井弘社長と美智子副社長夫妻。同社には震災前、研修生として二十歳前後の六人のインドネシア人女性がいた。
三月十一日午後二時四十六分、尋常ではない揺れを受け、臼井さんらと従業員、インドネシア人研修生は薄手の作業着のまま、裏手の高台へ駆け出した。津波で押し流れた大型船が建物をなぎ倒すように内陸へ進んだ結果、工場のあった鹿折地区は現在も辺り一面建物がない。
■文化の違い乗り越え
気仙沼の水産加工場でインドネシア人が働き始めたのは二〇〇八年からと歴史は浅い。
若者が工場労働を敬遠し、水産加工場の従業員の高齢化が進んだ。福寿水産などは組合を作り、マグロ漁船の船員として評判が高かったインドネシア人を受け入れることにした。
研修生たちは、街の人たちを見れば、明るくあいさつを交わした。一緒に食事をする時も受け入れ側は豚肉は出さないよう配慮し、彼女たちは寿司をおいしそうに食べるなど、文化の違いを乗り越えて市民生活に溶け込んだ。
「自分の娘の自慢をするようね」と、浴衣を着て夏祭りに参加した研修生の写真を見せる美智子さん。ほかの従業員も皆家族のようにかわいがった。「人件費を安く抑えようとすると失敗する。ほかの人が来てくれない職場に来てくれてるんだから、分け隔てなくしないと」
■「まだ外国人雇えず」
震災後は臼井さん家族らと十一人で避難生活を送った。十六日に、インドネシア大使館から迎えが突然来た。最後の夕食を半分ほど食べ終えると、それまで明るく振舞っていた研修生たちは泣き出した。
彼女らが出て行った後、手紙が置いてあった。「大変なことになったのに、何も手伝ってあげられずすいません」「福寿水産の家族、今までありがとう」「また絶対会えるから」
寄航した際に一時、滞在するだけだったマグロ漁船の船員たちとは異なり、研修生たちは気仙沼で日常生活を送った。震災前には約四十人が水産加工業に従事していた。だが震災から一年経ち、操業を再開した加工場はほとんどなく、現在気仙沼にインドネシア人は一人も滞在していない。
福寿水産は四月に工場を再開予定だが、取引先との関係も途切れ、完全稼働まで一、二年は掛かる。いつになれば、業績が震災前に戻るかどうかも分からない。気仙沼では依然、一万三千人が仮住まいを続けており、「その人たちが落ち着くまでは外国人を雇うことはできない」(臼井社長)。
三陸の漁業の町でこつこつと築かれ始めていた日イの交流。インドネシア人研修生たちが、再び受け入れられるようになるまでの道のりはまだ遠い。(関口潤、つづく)
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