「皆、祭りを待ってた」 気仙沼のパレード復活 港町にインドネシア 震災乗り越え
2011年3月11日の東日本大震災で津波とその後の火災が大きな被害をもたらした宮城県気仙沼市で12日、「インドネシア・パレード」が行われた。「その日その日生きていくので必死で、生活に直接関係のない祭りのことなんて考えられなかった。こんな日が来るとは思わなかった。夢見てるみてえだ。本当に幸せだよな」。02年の初開催以来、パレードを引っ張ってきた鈴木敦雄さん(52)は、震災から1年5カ月を経て港町に戻ってきた南国の踊りを見ながらかみ締めるように語った。
どんよりと暗い曇り空が広がったが何とか雨は降らずに迎えた12日午後、「日本で最も印象深い町。私はここで、良き日本人の気質を学んだ」と語るムハンマド・ルトゥフィ駐日大使(10年8月から現職)が「頑張ろう気仙沼。頑張ろう日本」と力強い日本語で宣誓し、パレードが始まった。
ロンドン五輪銀メダルのフェンシング日本代表や米海兵隊のブラスバンド、市民の気仙沼音頭などに続いて入場したのは、高さ2メートル半のジャカルタの伝統人形「オンデル・オンデル」。沿道の人々と次々と握手を交わすサービス精神旺盛なオンデル・オンデルだが、小さな子どもは怖がって親の背中の後ろへ隠れていく。
インドネシアのライオンズ・クラブなどが寄贈したインドネシア各地の衣装を着て歩く参加者。アチェの結婚式を再現し、伝統衣装を着た2人が軽トラックを改装した山車に乗って手を振り、バリで魔女を表す仮面のランダと獅子舞のようなバロンが戦い、トラックの荷台と合わせて高さ4メートル弱の巨大なバリの張りぼて人形オゴオゴが続く。
気仙沼市唐桑在住の千葉尚美さん(43)は地元紙三陸新報の記事を見て、パレードを見に来た。「色彩豊かで南の島の華やかさ、明るさがある。情熱の国なんだろうなって思った」
参加者は80人で35人が気仙沼市民。バンダアチェ市の副市長や同市職員、インドネシア人留学生、首都圏のバリダンス教室、学生ボランティアなど、過半数が気仙沼以外からの参加者。多彩な人が集結してパレードが実現した。
60年前から行われ、昨年は中止となった「気仙沼みなとまつり」内で行われる街頭パレード。気仙沼商工会議所青年部は毎年「バリ・パレード」を行ってきた。2007年からは当時のユスフ・アンワル前駐日インドネシア大使が地方の港町で盛大に行われているパレードに感銘を受け、毎年訪れるようになった。
震災後の6月にユドヨノ大統領が被災地の訪問先として気仙沼を選択。現在、遠洋マグロ漁船の乗組員の3分の2、約800人のインドネシア人が働くなど、古くから関係の深い気仙沼とインドネシアの関係が両国の人々に知られるようになった。10年間掛けて集めてきた道具や衣装が津波で流されてしまったが、地方都市とインドネシアの友好関係を支えてきたパレードの復活を後押ししようと、インドネシアに住む邦人や日本と関わりのあるインドネシア人らに支援の輪が広がり、今年、インドネシア・パレードと名称を変更して復活するに至った。
以前までの会場だった港周辺では再建した建物はまだ、ほとんどなく、再び人が集う街になるめどが立たない。会場は内陸の新市街地へと移動した。
以前よりも距離は短くなったものの、この日は沿道に人が溢れていた。二十数年前、遠洋漁業が最盛期を迎え、商店街に活気があった時代と同じ雰囲気だった。「あんなことがあったけど、みんな祭りを待ってたんだ。やっぱり必要なエネルギーなんだな」。鈴木さんは「こんなパレードができたのは、日本とインドネシアの皆さんの強い思いのおかげ。感謝、感謝としか言えることがない」と語った。(関口潤、写真も)