【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(19)】 教育者としての姿 井上実由紀
二〇〇七年九月七日の一面「インドネシア人研修生荒波の中日本人中学生を救助し、死亡」の記事を目にした時から私の世界が大きく広がりました。当時、バンドン日本人学校で教員として勤務していた私は、このじゃかるた新聞の記事に心打たれ、映画を作ろうと決意しました。すぐに編集部に電話を入れ、逆取材をお願いしたことを昨日のことのように思い出します。
バンドン在住だった私にとって、日本語で書かれたじゃかるた新聞を読むことが、日本やインドネシアの情報とつながることのできる大切なライフラインでした。電話を入れ、一週間後の週末、じゃかるた新聞に出向くと、新聞社の中には自分よりも年齢の若い記者の方々の姿がありました。
「エンダンさんの人生をドキュメンタリー映画にして、一人でも多くの人に知ってもらいたい」という私の無謀ともいえる計画を応援してくれたのが、じゃかるた新聞でした。「マス・エンダン」ジャカルタ初上映会に出向いてくださった草野さんは上映後、目に涙を浮かべ、「悲しいね。昔はこんなに涙が出なかったんだけどね」とおっしゃってくださいました。
私にとっての草野さんは、ジャーナリストよりも、教育者としての印象が強く残っています。じゃかるた新聞の記者の方々の一人ひとりとの出会いの場面をすべて覚えておられ、「記者になってほしいんだよ。こんなに楽しい仕事はないんだよ。それを味わわせたい」と熱く語っておられました。大学を卒業して間もない若者とともに、ご自身もエネルギッシュに取材に出向かれ、経験豊かな草野さんが、真っ向から真剣に若者と向き合い、指導する姿には、同じ教育者として感動させられました。治療中は日本に帰国されるたびに、元じゃかるた新聞記者たちの就職に向けて奔走し、「何としても日本の新聞社に入れたい」と語っておられました。
「夢はまだたくさんあるんだよ。でもいつまでできるかな」と悲しそうに言葉をこぼされた後も二年もの間、日本とインドネシアを往復されていました。
草野さんが愛情をかけて育てられた多くの弟子たちが、草野さんの記者としての熱い血を引き継ぎ、活躍されていかれることを心より願っております。草野さんと出会え、同じ時間を過ごさせていただき、たくさんの生きたお話を直接聞かせていただけたことにただただ感謝の気持ちでいっぱいです。(元バンドン日本人学校教諭、現・東京都小学校教諭)――ドキュメンタリー映画「マス・エンダン」監督。映画制作をきっかけに交流を続ける。