【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(18)】 市民交流受け継ぐ 濱田雄二 

 草野さんとは三十年以上のお付き合いで、いろいろとお世話になりました。草野さんはじゃかるた新聞編集長として、多くの有能な人材を育て、世に送り出しました。日本から来た青年たちを立派な国際的新聞記者・社会人に育て上げ、外交官として活躍している「草野学校」OBもいます。
 一九八一年七月、私がスラバヤからジャカルタに赴任した最初の晩、家族ともどもお宅に招待を受け、温かく歓迎されたことを昨日のように覚えています。当時は学生運動のほか、イスラム過激派の騒擾(そうじょう)事件なども多い中、八二年に治安秩序回復作戦司令部(戒厳司令部)が廃止され、インドネシアは最初の「民主化」のスタートを切った時期。選挙キャンペーンのたびに暴動と発砲事件が起きていました。草野さんと民主化の行方はどうなるんだろうと心配しながら話し合ったのもついこの間のようです。
 二〇〇四年、私が在インドネシア大使館広報センター所長として赴任した際には、新館に移転したばかりの大使館を広報して頂きました。同年十二月のアチェの大震災では、バンダアチェの日本大使館・JICA(国際協力機構)臨時事務所を何回も取材され、アチェの悲惨な状況と日本の支援について報道されました。
 〇九年十月、ユドヨノ大統領の第二期目の大統領就任式典で、渡部恒三・政府特使に同行してインドネシアを訪問した際、会場で草野さんが同郷の渡部特使に「先生、どうもしばらくぶりです」とあいさつされ、先生は親しげに「おう、君か、ここにいたのか」とうれしそうに話をしていたのを思い出します。同年、インドネシアの主要メディアによる訪日団が福田康夫元総理と日イ合同メディア懇談会を開催。草野さんは「大勢いた方が良い」と、草野学校のOB記者に声をかけ、多くの方に集まって頂きました。
 二〇一一年二月、私はメダン総領事として赴任。最初の訪問地として、復興を進めるアチェを見ようと一緒に視察しました。その時に知ったのですが、草野さんはすでに病魔と闘っていました。バンダアチェが見事に復興した姿を見てお互い感激しましたが、草野さんはさらなる復興支援について心を配り、最近までアチェのプルサダ(元日本留学生協会)に義援金を送付していました。
 東日本大震災後、大統領が被災地を直接訪問された時には、草野さんは病魔との闘いに苦しみながら同行取材されました。アチェの復興精神と東日本大震災の復興を具体的につなげる事業を行おうと草野さんと話をしていた矢先に他界されましたが、私たちは草野さんが理想とした、日本とインドネシアの二国間の市民交流・協力推進の精神を受け継いでいこうと思っています。(駐メダン総領事、インドネシア駐在時など30年以上にわたって交流を続ける)

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