【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(15)】 笑顔の奥の記者魂 佐藤百合
一九八五年のチュンダナ通り。そこで私は初めて草野さんに会った。
ジャカルタの高級住宅街メンテンの中心部に位置するこの通りに、当時のスハルト大統領の私邸があった。本当に大事なことは、大統領官邸ではなくチュンダナで決められる。そう世間では信じられていた。私が在籍していたインドネシア大学のクラスメートも、チュンダナの話になると急にヒソヒソ声になる。そういう特別な場所だった。
少し手前でバジャイを降りた私は、三三番地の毎日新聞支局邸を探してチュンダナ通りに足を踏み入れた。鬱蒼(うっそう)とした街路樹、ひんやりと重たい空気。警護の兵士に見とがめられるのではないかと、私の緊張は極限に達していた。
その時、少し遠くに、家の前に立っている人が見えた。先方は私をみると相好を崩した。お互い初対面でも、約束の日本人だとすぐに分かったのだ。チュンダナの空気に不釣り合いなほどの丸いニコニコ顔。私の緊張は一気にほどけた。
その時に何を話したのか、残念ながら覚えていない。けれども、今さらながら思うのは、チュンダナに支局を構えること自体、当時の常識では「ありえない」発想だったということだ。草野さんの並々ならぬ記者魂のなせる技である。
一九九八年、スハルト辞任直後の混乱の中でいち早く「じゃかるた新聞」創刊に向けて奔走したのも、まさしく草野さんの記者魂の表れだ。私もちょうど二度目の赴任でジャカルタにいた。構想を初めて聞いた時の、前を見据えた草野さんの明るい眼差しは忘れられない。
そして、インドネシアが怒涛のごとく民主化に向かって走り始めた激動期、「じゃかるた新聞」も草野さんの信念に支えられて走り始めた。
草野さんは、私がジャカルタで講演をしたり、研究成果を出したりするたびに丁寧に取材して下さった。外国人として初めてインドネシア大学で博士号を取得した時も、授与式に駆けつけて記事にして下さった。駆け出しだった一九八五年からずっと、私は研究者としての成長を草野さんに見守ってもらったような気がしている。
「世界のたくさんの素晴らしい人に出会い、そうした人々の考えや言葉を伝えることで世界が変わる。社会の役に立つ。それが一番の喜び」。こう語ったという草野さん。この思いがすべての原動力だったのかと今、納得する。
私たちにとって、草野さんの笑顔、その奥の記者魂は永遠です。(アジア経済研究所インドネシア研究者)