インドネシア独立を支援 前田精少将 流血の惨事、未然に防ぐ
インドネシアは8月17日、72回目の独立記念日を迎える。日本の敗戦から2日、日本とインドネシアとの間に一番長く熱い歴史的な日があったことを知る日本人はあまり多くない。一歩間違えればインドネシア人と日本軍との間で銃撃戦が始まり、武装決起によって全国で悲惨な流血事件が発生していたかもしれなかった。これを未然に防いだのは、在バタビア(ジャカルタ)日本海軍武官府代表で、当時47歳の前田精(ただし)海軍少将だった。
前田少将がポツダム宣言から逸脱してまでもインドネシアの独立を支援した背景には、以前からスカルノ氏(初代大統領)との個人的関係があったこと、および支援の手を差し伸べなければ、インドネシア急進派の青年らによる武力闘争が開始され、大惨時発生の危機が目前に迫っていたことを十分理解していたからである。
日本軍はポツダム宣言受諾後、インドネシアを現状維持のまま連合国に引き渡す義務を負い、一斉蜂起などの突発事案に対しては武力で鎮圧する義務があった。当時の日本陸軍は独立の許可発出や支援を一切拒否、独立宣言起草の立ち合いすら拒否した。
インドネシアの独立は、非常手段によって宣言する以外に方法はなかった。前田少将はこの危機的な時期に、武力行使を主張する急進派に拉致されていたスカルノ、ハッタ両氏をインドネシア独立養正塾のスバルジョ氏らと共に解放し、独立宣言起草の場所として中央ジャカルタ・メンテンの公邸を提供した。自分の経歴と生命さえも賭けることとなった。
前田少将の長男である西村東亜治氏によると、前田少将は1939年から海軍駐在武官としてオランダ・ハーグに駐在中、オランダに留学していたインドネシア人と面識を持ち、スカルノ氏と会っていた。アジア人同士のアジア解放に向けた理想と意見が一致、互いに助け合う約束をしたという。
そして40年の第2次日蘭会商(日本とオランダ領インドネシアの経済交渉)の際、前田少将は日本側代表団として参加、その際ジャカルタに日本海軍連絡事務所を開設した。42年にはバタビア日本海軍武官府が開設され、その代表としてバタビアに赴任、同時に前田少将は海軍武官府内にインドネシア独立養正塾を創設している。同塾長にはスバルジョ氏(初代外相)を据え、スカルノ氏は政治史を、ハッタ氏は経済学を教え、西嶋重忠氏は前田少将の意を受けて海軍武官府嘱託として養成塾の世話役を務め、実務遂行の役を担った。
1992年当時のインドネシア大統領武官府長官によると、45年6月22日、憲法前文の起草を目指したジャカルタ憲章の全文には「主権在民のイスラム信徒にはイスラム法の実践を義務とする神への信仰に基づき、インドネシア共和国民族の独立は準備される」と記されていた。当初インドネシアはイスラム教国を掲げていたが、前田少将はこの全文であれば、将来インドネシアの東半分は離反して失う可能性があるとして訂正の必要を訴えたという。(濱田雄二、2面につづく)